更新

  • 2017年4月21日 : 一部サイトを更新しました。
  • 2017年4月3日 : 教会の沿革を一部、 更新しました。
  • 2017年3月19日 : 行事を更新、写真等を更新しました。
  • 2017年2月8日 : これまでの説教要旨を更新しました。
  • 2017年1月23日 : これまでの説教要旨を更新しました。
  • 2017年1月22日 : ホームページリニューアル。
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17


教会の沿革


大泉ベテル教会の誕生は、故・深津文雄牧師が日本ではじめてディアコニッセ運動を立ち上げ、さまざまな事情で保護を必要としている女性のための施設をこの大泉に開設したことに由来します。  そこで奉仕するディアコニッセ(奉仕女)と利用者たちによって守られていた施設内での礼拝に、地域の人たちも参加するようになり、1961年に日本キリスト教団大泉ベテル教会として、教団より認可されました。  その後、礼拝堂を施設別館(新座市栄)に移し、地域の教会として宣教活動を続けてきました。なお、教会の事務所は現在も社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」(練馬区大泉学園町)にあります。
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集会案内

聖日礼拝

日曜日 午前10時半

こどものれいはい

日曜日 午前 9時半

カナの会

(第二水曜日) 讃美歌を歌う会 14時

ベテル文庫

(第三月曜日) 14時

マリア会

(第四日曜日、原則、変更もあり)礼拝後

※どなたでも参加できます

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牧師の紹介

森田 進 牧師
1941年生まれ
学歴
 埼玉県立浦和高等学校卒業
 同志社大学文学部
 早稲田大学文学部国文科
 東京神学大学修士課程

職歴
 梅光女学院高等学校    1966
 教文館出版部       1968
 日本キリスト教団出版局  1968〜1970
 四国学院大学専任講師   1970〜1983
 恵泉女学園大学教授    1983〜2007
 日本キリスト教団土師(はぜ)教会牧師 2011-2016年3月
 日本キリスト教団大泉ベテル教会牧師 2016年4月-現在
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これまでの説教要旨

先週の説教から「死は勝利にのみ込まれた」伊藤瑞男牧師
2017年4月16日
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれていることが実現するのです。 『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」」コリントT15:54〜55 死は今まで、すべての人を例外なくその支配と絶望に呑みこんできました。 しかし、今や、イエス・キリストが十字架の死から甦られたことによって、事態が一変しました。すなわち、神さまは死に支配されず、 死に勝利されることは旧約の信仰者たちも信じていましたが、人となられた御子イエスが復活されたことによって、人も甦ることができることが示されました。 人が復活を与えられるのは終末においてですが、イエス様を信じる者の目には、死者が朽ちない霊の体を身に着けて一斉に甦る姿を垣間見ることが許されるのです。 その意味で信仰者は今復活の確かな希望に生きることが許されています。
私たちも、「死よ、お前の勝利はどこにある」、と勝利宣言をすることができるのです。 死が敗北するのはどのようにしてでしょうか。それは、死の武器である「とげ」=罪が十字架によって取り除かれることによってです。 罪は死を恐ろしくさせ、畏れによる死の支配を強化します。同時に、律法が罪を増大強化します。なぜなら、死とサタンは、律法を守らなければ、 神の罰が与えられること、守ってもよい行いの底に罪の心が潜むことを絶えず人に知らせ、絶望に導くからです。
しかし、主イエスの十字架の贖いにより、罪が消え、律法による救いではなく、神の愛による救いを完成されたからです。 死と罪の完全な勝利が、逆転して、死の完全な敗北に変えられました。 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。」(57節)

先週の説教から「ののしった」森田進牧師
聖書 マルコ 15:24〜32
2017年4月2日 受難節第五主日礼拝
私どもは、イエスさまの刑死のゴルゴダの場面に慣れ過ぎてしまって、じっと見つめる訓練を放り出していませんか。15:16、「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた」。おそらく両手を縛り、引き摺りながらです。17節、「「紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ」。「紫の服」は、王が纏う色です・18節、「『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた」。これは、「ローマ皇帝、万歳」を意味する侮蔑です。罪状書きは、政治犯としての死刑囚の意味なのです。下級兵士としてあしらわれている彼らの鬱憤が爆発している。そして十字架につけるために外へ引き出され、横木を担がされた。
ついに十字架に架けられ、「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが」。イエスさまはお飲みにならなかったのです。没薬はイエスさまが誕生の場面のお祝いの一つであったのですが、じつは死の予兆でもあったのです。そして、兵士たち、通りかかった人々、ユダヤ社会の支配階層、さらに死刑囚たちもが、そろってイエスさまを侮辱してののしったのです。この人間たちのむき出しな底の浅さ、ここであらためて見せつけられたのです。
今日の個所に続く33~34節、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは、大声で叫ばれた」。絶望の極みで叫ばれた。イエスさまのこの絶望の死があって、初めて私どもの絶望が越えられたのです。 そして、福音書は一気に復活の場面へとジャンプする。この一点で私どもの希望が立ち上がる。
私ども弟子たちは、ほとんど皆、刑死の現場から逃げ出してしまった。しかし、今日、イエスさまから和解の福音へと招かれている。これこそが与えてくださった赦しと恵みなのです。この事実を胸にして、受難日を迎えましょう。

先週の説教から「自分を救う」森田進牧師
聖書 ルカ 23:32〜43
2017年3月26日 受難節第四主日礼拝
3本の十字架刑に架けられた3人の囚人の関係をめぐるドラマは、ここにしか登場しな い。地名「されこうべ」は、いまだに特定されていない。 イエスさまの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。赦しの祈りが十字架刑の現場から始まっている。「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」。議員たちは、悪魔の代役を演じている。
さて、ルカは、犯罪者にとっての十字架と、イエスさまにとっての十字架の意味を問い直すのだ。おそらく右の囚人がたしなめる。「我々は、自分のやったことの報いを受けている(略)。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。さらに付け加えて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。
これはひたむきな信仰告白だった。だからイエスさまはお答えになった。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この時、まさに、永遠の神が私の今日の中に突入してきたのです。 二人の囚人の最後は、聖書には何も記されてはいません。が、もう一人の囚人もまた、 最後の息絶え絶えの時に、「主よ、イエスよ」と告白したに違いありません。そして安らか に神の国へと招かれたと私は確信しています。
主の十字架刑は万人を救うためにあったのです。私共も御国の住民なのです。喜びを持って生き抜きましょう。

先週の説教から「そんな人は知らない」森田進牧師
聖書:マタイ 26:69〜75
(2017年3月19日)
鶏は、旧約には登場しない。福音書のペテロとの関係でしか登場しない。
ユダに裏切られたイエスさまは、官憲に逮捕され、即席裁判にか けられた。イエスさまは3回問い詰められた。ペテロは3回、「イエ スと一緒だった」と指摘された。イエスさまの一貫した沈着な堂々 とした態度に比べて、ペテロは主を否む。ペテロは、こりゃあまず い、と、すたこらさっさと逃げ出したが、またしても新たな証人が 現れた。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。「そんな 人は知らない」と誓って打ち消したペテロは、誓ってしまった時、 イエスさまに申し訳ないと思って、ちらっと主イエスの方を見遣っ た。イエスさまは振り返らなかった。人々は、「確かにお前もあの連 中の仲間だ」と言った。「そんな人は知らない」と誓い始めた。する とすぐ、鶏が鳴いた。たった数時間前、ペテロは「たとえ、御一緒 に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決 して申しません」と言ったばかりなのだ。
一方、ルカは、「突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめ られた」とある。ここは見逃すわけにはいかない。鶏を通して、人 生の決定的な時が告げられたからだ。絶望のどん底で主イエスとの 決定的な出会いがあった。目覚めよと鶏が知らせていたのです。「そ して外に出て、激しく泣いた」。この時、主の目が語っていたものを、 私どもは直感的に掴み取らねばならない。そして、何故その後のペ テロが、目覚ましい宣教をしたのか。「激しく泣いた」の部分に潜ん でいるのは、きっと論理を越えた、恐ろしいような、しかも聖なる ものに抱き抱えられるドラマに違いない。やがてペテロ殉教の伝承 が生まれた淵源もここにある。
「主は振り向いてペテロを見つめられた」ように、私ども一人ひ とりを見つめられたのに、気が付かない存在であることに気が付く 地点から、また1歩ずつ歩み始めましょう。私どもは、すでに知られ ており、見つめられているのです。そこに気が付いた時、初めて主 にある平和が生まれるのです。ハレルヤ。

先週の説教から「霊によって」森田進牧師
聖書:ヨブ記 42:1〜6
ロマ書 8:10〜11
(2017年3月12日)
ヨブは、ウツの富豪、無垢、正しい人で、神を畏れ、名誉と財産 にも恵まれていた。しかし突然三日間で子ども全員が殺害され、財 産も失い、全身腫物ができて醜くなり苦しみ続ける物語です。受け 入れがたい苦悩は、不条理として捉えられている。神に向かって、 納得できる答えをくださいと求めている。耐えねばならないことと はどういう意味があるのかを神に問うている。他人事ではない。私 どもにも今日襲いかかってくるかも知れない。ヨブは、友人たちの 道徳的な説得に対しては反論、神には論争を挑んでいる。この部分 は韻文(詩)であるのは興味深い。比喩に満ちている。
さて、神はヨブの挑戦には乗って来ません。が、最後には、主は 砂塵の中から、答えて仰せになるのです。猛烈な勢いで喋りまくっ た、と言いたい。ヨブ記28章以下41章26節まで。それらは、 熊や鹿、山羊、野生の驢馬、野牛、駝鳥、鷲らの荒々しい世界、そ してベヘモットやレビヤタンという獣が跳ね回る世界なのです。  いったい神は何を語ったのでありましょうか。弱肉強食の現実が 生々しく再現されている。その猛々しさを描き出す神の前で、圧倒 されていくヨブ。
この自然界の現実が映し出され、神は次々とヨブに思いがけない 質問を浴びかけていく。その時、ヨブは、今まで体験して来た現実 に続いている世界に対して、奥行きのある新しい認識に襲われたの であります。塵埃である私を、最後まで応答し続けてくださった神 に対する感動が涌き起こり、このまま救われていることを実感でき たのです。これがロマ書の「霊によって」の結論です。旧新約聖書 を貫くのは、永遠の命を生きる神さまによる恩寵なのです。

先週の説教から「値踏みされた者」森田進牧師
聖書 マタイ 27:3〜10
2017年3月5日 受難節第一主日礼拝
小見出しは、「ユダ、自殺する」。イエスさまの裁きの場面です。最高法院は、夜の間に、イエスさまを神を冒涜した最大の犯罪人として裁いた。が、最高法院には死刑宣告の権限は一応ありますが、帝国から派遣された総督が執行する決定権を持っている。そのためには、帝国の秩序を脅かす政治犯に仕立てあげねばならなかった。
ユダの心を代弁しよう。「儂の信じたイエスさまは、きっと立ち上がる。儂は、イエスさまに従う一行の伝道にかかる費用の一切を工面してきた。誰も知らないだろうが、じつは儂はユダヤ独立を目指す武力解放戦線地下組織の一員だ。イエスさまは、帝国に反旗を翻して立つ時がきっと来る。儂は、その決起の日のために資金も着々と用意してきた。他の弟子たちにはこんな才覚はない。それなのに、昨晩、主はこう言った。『人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった』。あの言葉は残酷だ。あの時、儂は憤然として夜の中に飛び出し、泣いた。儂の最後の期待と求愛を分からなかったのは、主よ、あなた、だ。馬鹿だった。銀貨30枚、祭司長たちは主と儂を値踏みした」。が、もう遅い。ああ、主を奪い返すことはできない。
さて21世紀に生きる私どもはユダではない。が、無関係ではない。あの日十字架刑にかかった主を見捨てて弟子たちは逃亡した。みな裏切り者になった。ユダは首をくくって死んだ。 ユダの誤算はどこにあるのだろう。それは、ユダの夢と愛の過剰にある。イメージの中のイエスさまへの独占欲にある。誠実過ぎるほど、本気であるだけに手直しが効かないある種の狂気が、ユダを駆り立てていったのだ。私どもの中に潜むユダを克服して、慎重に大胆に行動していきましょう。

2017年2月の説教要旨
2017年1月の説教要旨

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アクセス地図

日本キリスト教団大泉ベテル教会
礼拝堂・牧師執務室 〒352-0014 埼玉県新座市栄4-6-17
通信・連絡先(ベテスダ奉仕女母の家)
〒178-0061 東京都練馬区大泉学園町7-17-30
Tel 03-3924-2238  fax 03-3921-4962

最寄り駅  西武池袋線大泉学園 駅 。 西武バス「新座栄」「朝霞駅南口」行き乗車。
「天沼マーケット」下車。初めての信号、(キムチ店角)を左折、徒歩2分(約160m)。
お問い合わせ → こちらから



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行事

・受苦日祈祷会 4月14日(金)19時 奨励  森田進牧師
信徒の証し 森田直子
・イースター礼拝 4月16日(日)10時半 説教 森田進牧師
・イースター愛餐会 4月16日(日)礼拝後 やきそば、おにぎり他のもちよりで楽しい時をすごします。
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