更新

  • 2017年3月19日 : 行事を更新、写真等を更新しました。
  • 2017年2月8日 : これまでの説教要旨を更新しました。
  • 2017年1月23日 : これまでの説教要旨を更新しました。
  • 2017年1月22日 : ホームページリニューアル。
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17


教会の沿革


大泉ベテル教会の誕生は、故・深津文雄牧師が日本ではじめてディアコニッセ運動を立ち上げ、売春防止法成立で保護された女性のための施設をこの大泉に開設したことに由来します。  そこで奉仕するディアコニッセ(奉仕女)と利用者たちによって守られていた施設内での礼拝に、地域の人たちも参加するようになり、1961年に日本キリスト教団大泉ベテル教会として、教団より認可されました。  その後、礼拝堂を施設別館(新座市栄)に移し、地域の教会として宣教活動を続けてきました。なお、教会の事務所は現在も社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」(練馬区大泉学園町)にあります。
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集会案内

聖日礼拝

日曜日 午前10時半

こどものれいはい

日曜日 午前 9時半

カナの会

(第二水曜日) 讃美歌を歌う会 14時

ベテル文庫

(第三月曜日) 14時

マリア会

(第四日曜日、原則、変更もあり)礼拝後

※どなたでも参加できます

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牧師の紹介

森田 進 牧師
1941年生まれ
学歴
 埼玉県立浦和高等学校卒業
 同志社大学文学部
 早稲田大学文学部国文科
 東京神学大学修士課程

職歴
 梅光女学院高等学校    1966
 教文館出版部       1968
 日本キリスト教団出版局  1968〜1970
 四国学院大学専任講師   1970〜1983
 恵泉女学園大学教授    1983〜2007
 日本キリスト教団土師(はぜ)教会牧師 2011-2016年3月
 日本キリスト教団大泉ベテル教会牧師 2016年4月-現在
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これまでの説教要旨

先週の説教から「そんな人は知らない」森田進牧師 聖書:マタイ 26:69〜75
(2017年3月19日)
鶏は、旧約には登場しない。福音書のペテロとの関係でしか登場しない。
ユダに裏切られたイエスさまは、官憲に逮捕され、即席裁判にか けられた。イエスさまは3回問い詰められた。ペテロは3回、「イエ スと一緒だった」と指摘された。イエスさまの一貫した沈着な堂々 とした態度に比べて、ペテロは主を否む。ペテロは、こりゃあまず い、と、すたこらさっさと逃げ出したが、またしても新たな証人が 現れた。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。「そんな 人は知らない」と誓って打ち消したペテロは、誓ってしまった時、 イエスさまに申し訳ないと思って、ちらっと主イエスの方を見遣っ た。イエスさまは振り返らなかった。人々は、「確かにお前もあの連 中の仲間だ」と言った。「そんな人は知らない」と誓い始めた。する とすぐ、鶏が鳴いた。たった数時間前、ペテロは「たとえ、御一緒 に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決 して申しません」と言ったばかりなのだ。
一方、ルカは、「突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめ られた」とある。ここは見逃すわけにはいかない。鶏を通して、人 生の決定的な時が告げられたからだ。絶望のどん底で主イエスとの 決定的な出会いがあった。目覚めよと鶏が知らせていたのです。「そ して外に出て、激しく泣いた」。この時、主の目が語っていたものを、 私どもは直感的に掴み取らねばならない。そして、何故その後のペ テロが、目覚ましい宣教をしたのか。「激しく泣いた」の部分に潜ん でいるのは、きっと論理を越えた、恐ろしいような、しかも聖なる ものに抱き抱えられるドラマに違いない。やがてペテロ殉教の伝承 が生まれた淵源もここにある。
「主は振り向いてペテロを見つめられた」ように、私ども一人ひ とりを見つめられたのに、気が付かない存在であることに気が付く 地点から、また1歩ずつ歩み始めましょう。私どもは、すでに知られ ており、見つめられているのです。そこに気が付いた時、初めて主 にある平和が生まれるのです。ハレルヤ。

先週の説教から「霊によって」森田進牧師
聖書:ヨブ記 42:1〜6
ロマ書 8:10〜11
(2017年3月12日)
ヨブは、ウツの富豪、無垢、正しい人で、神を畏れ、名誉と財産 にも恵まれていた。しかし突然三日間で子ども全員が殺害され、財 産も失い、全身腫物ができて醜くなり苦しみ続ける物語です。受け 入れがたい苦悩は、不条理として捉えられている。神に向かって、 納得できる答えをくださいと求めている。耐えねばならないことと はどういう意味があるのかを神に問うている。他人事ではない。私 どもにも今日襲いかかってくるかも知れない。ヨブは、友人たちの 道徳的な説得に対しては反論、神には論争を挑んでいる。この部分 は韻文(詩)であるのは興味深い。比喩に満ちている。
さて、神はヨブの挑戦には乗って来ません。が、最後には、主は 砂塵の中から、答えて仰せになるのです。猛烈な勢いで喋りまくっ た、と言いたい。ヨブ記28章以下41章26節まで。それらは、 熊や鹿、山羊、野生の驢馬、野牛、駝鳥、鷲らの荒々しい世界、そ してベヘモットやレビヤタンという獣が跳ね回る世界なのです。  いったい神は何を語ったのでありましょうか。弱肉強食の現実が 生々しく再現されている。その猛々しさを描き出す神の前で、圧倒 されていくヨブ。
この自然界の現実が映し出され、神は次々とヨブに思いがけない 質問を浴びかけていく。その時、ヨブは、今まで体験して来た現実 に続いている世界に対して、奥行きのある新しい認識に襲われたの であります。塵埃である私を、最後まで応答し続けてくださった神 に対する感動が涌き起こり、このまま救われていることを実感でき たのです。これがロマ書の「霊によって」の結論です。旧新約聖書 を貫くのは、永遠の命を生きる神さまによる恩寵なのです

先週の説教から「値踏みされた者」森田進牧師
聖書 マタイ 27:3〜10
2017年3月5日 受難節第一主日礼拝
小見出しは、「ユダ、自殺する」。イエスさまの裁きの場面です。最高法院は、夜の間に、イエスさまを神を冒涜した最大の犯罪人として裁いた。が、最高法院には死刑宣告の権限は一応ありますが、帝国から派遣された総督が執行する決定権を持っている。そのためには、帝国の秩序を脅かす政治犯に仕立てあげねばならなかった。
ユダの心を代弁しよう。「儂の信じたイエスさまは、きっと立ち上がる。儂は、イエスさまに従う一行の伝道にかかる費用の一切を工面してきた。誰も知らないだろうが、じつは儂はユダヤ独立を目指す武力解放戦線地下組織の一員だ。イエスさまは、帝国に反旗を翻して立つ時がきっと来る。儂は、その決起の日のために資金も着々と用意してきた。他の弟子たちにはこんな才覚はない。それなのに、昨晩、主はこう言った。『人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった』。あの言葉は残酷だ。あの時、儂は憤然として夜の中に飛び出し、泣いた。儂の最後の期待と求愛を分からなかったのは、主よ、あなた、だ。馬鹿だった。銀貨30枚、祭司長たちは主と儂を値踏みした」。が、もう遅い。ああ、主を奪い返すことはできない。
さて21世紀に生きる私どもはユダではない。が、無関係ではない。あの日十字架刑にかかった主を見捨てて弟子たちは逃亡した。みな裏切り者になった。ユダは首をくくって死んだ。 ユダの誤算はどこにあるのだろう。それは、ユダの夢と愛の過剰にある。イメージの中のイエスさまへの独占欲にある。誠実過ぎるほど、本気であるだけに手直しが効かないある種の狂気が、ユダを駆り立てていったのだ。私どもの中に潜むユダを克服して、慎重に大胆に行動していきましょう。

先週の説教から「福音によって」森田進牧師
聖書:第一コリント 15:1〜8
(2017年2月26日)
みなさんは、まど・みちおの「ぞうさん」という童謡をご存知だ と思います。「ぞうさんぞうさん/おはながながいのね/そうよ/かあさんもながいのよ」。子どもはあの象さんに友情を感じるようで大 人気です。その、まど・みちおが50歳から2年間、詩を書くのも忘れて、いわば創世の太古の世界を抽象画で表現して、200枚を 戸棚にしまっておいたのです。鉛筆、色鉛筆、水彩絵の具、常規など使って。象さんの世界からは何十万年も遠い彼方から訪れた光と 影、円や線、三角形、螺旋形などで描かれた抽象画です。その創造 の秘儀に詩人は巡り会ったのだ。この詩人は、22歳のとき台北ホーリネス教会で受洗している。
その後新たに言葉の世界に戻って来たまど・みちおは、後半生を、言葉を自覚して徹底化した、宗教性を帯びた詩も書き続けていった。
今日のテーマは復活。無惨な死を遂げたイエスさまを見捨てて逃げた弟子たちが、どのように再起して原始キリスト教を広めていったのか、資料はひとつも残っていません。ペテロ、ヤコブ、ルカ、ほとんどの弟子たちが後に殉教したという伝承が残されているが、 詳細な資料は、残されていない。キリスト教は、じつは文字通り素朴な純粋な信仰によって伝わってきた。そうでなければ、底辺の民衆は耳を傾けなかったはずです。
まど・みちおの詩「コップ」と「人ではない!」をお勧めします。100歳の時の言葉に、「どんな小さなものも/見つめていると/宇宙につながっている」があります。信仰は素朴、純粋なものです。この信仰を貫いて、多様な文化を生きる世界の人々と、さらに自然と環境との平和共存の道を切り開いて行きましょう。

先週の説教から「主の名によって」森田進牧師
聖書:サムエル記上17:41〜51
(2017年2月19日)
17章の見出しは、「ダビデとゴリアト」だ。戦場に現れたペリシ テ人のゴリアトは、身丈約3b、鱗綴じの鎧、投げやりの穂先約3 4`の巨人、「相手を出せ。一騎打ちだ」。イスラエルの全軍は、こ の言葉を聞いて恐れおののいた。戦うと宣告するダビデに向かって サウルは答えた。「戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向 こうは少年のときから戦士だ」。ダビデは、羊を守るために獅子と熊 を倒したのです。だから「あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の 一匹のようにしてみせましょう。
彼は神の戦列に挑戦したのですか ら」。サウルは、この少年の信仰に驚き、感激した。そして戦士とし てのダビデを発見し、もっとも立派な自分の武具を与えた。が、脱 いでしまった。羊飼いであるのが一番自由なのだ。
続く48節からが一騎打ちのクライマックス。「ダビデは袋に手を 入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の 額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつぶせに倒れ た」。皆固唾を呑んで戦いの行方を見守っていた。日本ならば一寸法 師と鬼、牛若丸と弁慶の戦い。美少年と野獣の一騎打ちであった。 が、それらのおとぎ話とは、決定的に異なっているのがダビデの信 仰なのです。万軍の主の戦いを確信した少年のひたすらな信仰こそ が、この物語のほんとうのテーマなのです。
絶対的な唯一の神によって立つこと、立たせられていることを感 謝して受け入れている時、私どもは、生きているという実感を持っ てゆったりと呼吸していられるのです。主の名によって生きる、こ れが私どもの原理なのです。

先週の説教から「自由になる」」 森田進牧師
  聖書 ヨハネ8:31〜38
2017年2月12日 受難節前第三主日礼拝
31節、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。32節、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。イエスさまに傾聴し実践するならば、という厳しい条件付きなのです。
真理と自由は、勝手気ままな解釈、したい放題だとはき違える輩が多い。支配層には歴史の現実が、苦しむ人々が見えない。 だからイエスさまは切り返す。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。 罪からの解放とは何か、自由を求める渇きさえないという鈍感なエリートなのだ、と。
35節「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」。 父の家とその中にいるイエスさまの事実と比喩なのだ。36節「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。
37節「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。 だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている」。論理が飛躍していてどういう意味か分からず心の揺らぎを覚える人もいるだろう。 その揺らぎの中から考えるのだ。38節「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」。これは明らかに血筋上の父親のことだ。世俗的な自分らの位置の正当性意識の考え方しか出来ない。
 58節、決定的な言葉がイエスさまの口から飛び出す。「『アブラハムが生まれる前から、わたしはある』」。59節「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」。44節「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。彼の内には真理がないからだ」。真理と自由は、イエスさまが与えて下さったのであり、その喜びを生き抜いて行きましょう。

先週の説教から「落ち穂」 森田進牧師
  聖書 ルツ記2:17〜23
2017年2月5日 顕現後最終主日礼拝
 モアブの娘たちと結婚した二人の息子も死んでしまってやもめになったナオミは、二人の嫁に故郷に帰るように勧めた。モアブ人同士の再婚が一番安定した選択であったからだ。が、マフロンの嫁だったルツは、姑と共にベツレヘムへと移り住む決断をした。ナオミは、夫と二人の息子を奪われて、絶望のどん底に落ち込んでいた。
さて、ナオミの亡き夫エリメレクの一族にはボアズという有力な親戚がいて、落ち穂拾いをするルツに好意を示し、やがて激しい恋の焔に焼かれて求婚するまでに至った。その間の会話のやり取りは、万葉集時代の歌垣のようだ。13節、「あなたのはしための一人に及ばぬこのわたしですのに」、「こちらに来て、パンを少し食べなさい」。それを知ったとき、姑のナオミは知恵を授けます。「今晩、麦打ち場に下っていき、あの人の裾で身を覆って横になりなさい」と。これは、苛酷なうつろな状況に追い込まれたナオミが、ようやっと見いだした希望の光なのです。
 最終4章、ボアズはゴーエール制度(家を絶やさないための買い戻し)を実行する。そして晴れてルツを妻として迎えて祝福を浴びた。二人の間には、息子オベドが与えれた。 しかし、「ダビデの系図」には、ナオミとルツの名前は出て来ません。この書は「ルツ記」なのに、です。異民族モアブの女は、ユダヤの正式な共同体の構成員としては認められない。にもかかわらず、「ルツ記」が旧約聖書に採用されている事実から何を学び取れるかは明白です。女性の偉大な働きを神さまは高く評価してきたという事実なのです。
 大泉ベテル教会は婦人会で持っていると言ったら言い過ぎでしょうか。女性の本質と共にある、歴史に注がれる神さまの眼差しに感謝しましょう。

先週の説教から「わたしを遣わしてください」 森史子牧師
聖書:イザヤ書6:1〜8
マタイ28:16〜20
2017年1月29日
今、世界では米国の指導者の交代により、米国と多くの国々が不安の中で揺れています。私たちは、国の指導者の在り方が国民に与える影響の大きさを見せられているのです。52年間ユダ王国を治めたウジヤ王の死は、国のために祈ってきたイザヤにも影響がありました。
そのイザヤが、「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」のです。ウジヤが死んで王座から離れたのとは対照的に、まことの王である主が高くあげられた王座に座っておられる。イザヤは本当に頼るべきお方は、主なる神であることに気づかされました。
イザヤは、神の臨在と神の栄光の輝きを見たのです。同時に圧倒的な神の聖さに触れて、自分の罪を示され砕かれました。預言者として神の言葉を語る資格のない汚れた唇を持ち、誰よりも罪深い自分であることを告白したのです。
すると一方的に祭壇の燃える炭火を口に触れさせて、神の赦しが与えられました。「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」。高く天にある御座におられ た方は、主イエス・キリストです。そして祭壇の炭火は、十字架の 贖いを表しています。罪赦されたイザヤは、主の呼びかけに応答し ました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 この時、イザヤは、主の働きに入る第一歩をしっかり踏み出したのです。

先週の説教から「天に富を積む」森田進牧師
聖書:マタイ19:16〜30
2017年1月22日
この青年は、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。イエスさまの答えは、「善いお方はおひとりである」。イエスさまは続ける。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな。父母を敬え。また隣人を自分のように愛しなさい」。が、この青年は真顔で答えた。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か足りないでしょう」。自負さえ見えるではありませんか。安易な自己肯定です。
イエスさまは、視点を変えてこう言います。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。財産が悪、敵であるとは言っていない。 青年の自己認識の甘さを突いているのです。 そして「彼らを見つめて」とある。弟子たちの救いに対する理解力のなさに明らかに失望しています。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。誰が救われるだろうかという弟子たち の愚かな疑問。今目の前にいらっしゃるイエスさまがどなたであるのかがいまだに分からない。
弟子たちをそのまま放り出したくはないイエス様は、優しくしく厳しく、「神は何でもできる」と語った。
またしても直情径行のペテロは、「わたしたちは、何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。イエスさまは、「はっきり言っておく」云々。イエスさまがくださるものは神さまの栄光にあずかるという事実なのです。
イエスさまは、すべての人を完全に救えるのです。私どもは主の放つ香りに包まれて前進しましょう。

 先週の説教から「神の誉れ」 森田進牧師
聖書:箴言 25:2  
2017年1月15日
 今日は、引き続き今冬最大の寒波が列島を覆っている。そして全 国入試センター日です。こんな日、家族、日本、世界の明日に思いを馳せることを勧めます。
トランプ氏のむき出しな暴言に私どもは心を痛めている。金儲けでずんずん進む絶叫で世界が揺れ動く惨めな光景だ。世界が築いてきた秩序や価値観がひっくり返されそうな現在、聖句「ことを隠すのは神の誉れ」は、重大な意味をもって迫って来る。
「隠す」、「隠れる」は、私どもには探り得ないミステリー(神秘)であり、これも神の典型的な在り方なのです。
 私どもの神は、ご利益をもたらす特効薬の神ではない。私どもは、寛容と多様性に基づく民主主義に立って、互いに仕え合う世界を建設している。が、現実はどうかというと、危うい状況がじわりじわりと広がっている。
「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。」 即答を期待するのは愚かな人間の常だが、み声が聞こえるまで忍耐して待つべきだ。箴言に登場した「隠す」神を考える時だ。
 金曜日、教会のキッチンの盥に生けられた3本の枝を発見。1本の枝の蕾が開いて芳しい香りを放っている。蝋梅だ。精巧に刻んで造ったブローチ。厳冬を忘れてうっとりした。
 そのとき、祖父から教わったシェリーの詩の一行、「冬来たりなば春遠からじ」を突然思い出し、教会の庭に出た。梅が早くもうっすらと蕾を付けている。ピンクの山茶花が真っ盛り。夏蜜柑はたわわ。木の下には、純白の花をつけた水仙の群れ。紫菜の花の大きな葉っぱが広がっている。もう春の魁の装いです。
 大泉ベテル教会はエデンの園だ。世俗をひと時放り出して、玄関の前のアンネの薔薇を見に行きました。冬咲きの赤い蕾をふっくら付けていました。寒さを忘れていました。  信仰は、求めて祈り続ける途上で不意に与えられる神さまからの贈り物です。論理だけでは辿り着けません。解明できないミステリ(神秘)こそ神のもう一つの本質なのです。

先週の説教から「創造と和解」 森田進牧師
聖書:コロサイ 1:5〜20
2017年1月8日
著者探しは、重要事ではない。長い間、パウロの手紙として読み継がれてきた事実が重要なのだ。5節、「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」。「福音という真理の言葉」は、単刀直入だ。今日の部分には、「イエス」という固有名詞は登場せず、三位一体の「御子」という語が出ている。
すなわちキリストなのです。9節以下の善行の勧めは、ハードルが高いが、真意は〈信仰の力によって〉なのです。特に新約では、「喜び、喜ぶ」という単語は、「悲しみ、悲しむ」の3倍弱ある。第一テサの「いつも喜んでいなさい」は、余りにも有名だ。
15節、「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれたかたです。」私どもの理知で太刀打ちできない領域こそ神のもうひとつの領域なのだ。 16節には、驚くべきことが宣言されています。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、玉座も主権も支配も、万物は御子によって、御子のために、造られました。」 宇宙の全被造物を造られたのは御子であり、宇宙の最終目的も御子そのものなのです。この祝福された天地を託されながら、汚して破壊しつつあるのは人間なのです。18節以下は、決定的な結論です。「また、御子はその体である教会の柱であります」。20節、神は全被造物を「ただ御子によって、御自分と和解させられました」。
この壮大なキリスト論は、ローマ帝国による弾圧が苛烈を極めていく途上でなされた信仰告白なのです。だから創造と和解という根源的なテーマが形成されたのです。その教会に連なる枝として選んでくださったことを私どもが自覚しているかぎり、希望という真理を私どもは伝えていく義務があるのです。

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アクセス地図

日本キリスト教団大泉ベテル教会
礼拝堂・牧師執務室 〒352-0014 埼玉県新座市栄4-6-17
通信・連絡先(ベテスダ奉仕女母の家)
〒178-0061 東京都練馬区大泉学園町7-17-30
Tel 03-3924-2238  fax 03-3921-4962

最寄り駅  西武池袋線大泉学園 駅 。 西武バス「新座栄」「朝霞駅南口」行き乗車。
「天沼マーケット」下車。初めての信号、(キムチ店角)を左折、徒歩2分(約160m)。



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行事

・受苦日祈祷会 4月14日(金)19時 奨励  森田進牧師
信徒の証し 森田直子
・イースター礼拝 4月16日(日)10時半 説教 森田進牧師
・イースター愛餐会 4月16日(日)礼拝後 やきそば、おにぎり他のもちよりで楽しい時をすごします。
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