更新

  • 2017年2月26日 : 「福音によって」森田進牧師
  • 2017年2月19日 : 「主の名によって」森田進牧師
  • 2017年2月12日 : 「自由になる」」 森田進牧師
  • 2017年2月5日 : 「落ち穂」 森田進牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2017年2月
先週の説教から「福音によって」森田進牧師
聖書:第一コリント 15:1〜8
(2017年2月26日)
みなさんは、まど・みちおの「ぞうさん」という童謡をご存知だ と思います。「ぞうさんぞうさん/おはながながいのね/そうよ/かあさんもながいのよ」。子どもはあの象さんに友情を感じるようで大 人気です。その、まど・みちおが50歳から2年間、詩を書くのも忘れて、いわば創世の太古の世界を抽象画で表現して、200枚を 戸棚にしまっておいたのです。鉛筆、色鉛筆、水彩絵の具、常規など使って。象さんの世界からは何十万年も遠い彼方から訪れた光と 影、円や線、三角形、螺旋形などで描かれた抽象画です。その創造 の秘儀に詩人は巡り会ったのだ。この詩人は、22歳のとき台北ホーリネス教会で受洗している。
その後新たに言葉の世界に戻って来たまど・みちおは、後半生を、言葉を自覚して徹底化した、宗教性を帯びた詩も書き続けていった。
今日のテーマは復活。無惨な死を遂げたイエスさまを見捨てて逃げた弟子たちが、どのように再起して原始キリスト教を広めていったのか、資料はひとつも残っていません。ペテロ、ヤコブ、ルカ、ほとんどの弟子たちが後に殉教したという伝承が残されているが、 詳細な資料は、残されていない。キリスト教は、じつは文字通り素朴な純粋な信仰によって伝わってきた。そうでなければ、底辺の民衆は耳を傾けなかったはずです。
まど・みちおの詩「コップ」と「人ではない!」をお勧めします。100歳の時の言葉に、「どんな小さなものも/見つめていると/宇宙につながっている」があります。信仰は素朴、純粋なものです。この信仰を貫いて、多様な文化を生きる世界の人々と、さらに自然と環境との平和共存の道を切り開いて行きましょう。

先週の説教から「主の名によって」森田進牧師
聖書:サムエル記上17:41〜51
(2017年2月19日)
17章の見出しは、「ダビデとゴリアト」だ。戦場に現れたペリシ テ人のゴリアトは、身丈約3b、鱗綴じの鎧、投げやりの穂先約3 4`の巨人、「相手を出せ。一騎打ちだ」。イスラエルの全軍は、こ の言葉を聞いて恐れおののいた。戦うと宣告するダビデに向かって サウルは答えた。「戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向 こうは少年のときから戦士だ」。ダビデは、羊を守るために獅子と熊 を倒したのです。だから「あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の 一匹のようにしてみせましょう。
彼は神の戦列に挑戦したのですか ら」。サウルは、この少年の信仰に驚き、感激した。そして戦士とし てのダビデを発見し、もっとも立派な自分の武具を与えた。が、脱 いでしまった。羊飼いであるのが一番自由なのだ。
続く48節からが一騎打ちのクライマックス。「ダビデは袋に手を 入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の 額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつぶせに倒れ た」。皆固唾を呑んで戦いの行方を見守っていた。日本ならば一寸法 師と鬼、牛若丸と弁慶の戦い。美少年と野獣の一騎打ちであった。 が、それらのおとぎ話とは、決定的に異なっているのがダビデの信 仰なのです。万軍の主の戦いを確信した少年のひたすらな信仰こそ が、この物語のほんとうのテーマなのです。
絶対的な唯一の神によって立つこと、立たせられていることを感 謝して受け入れている時、私どもは、生きているという実感を持っ てゆったりと呼吸していられるのです。主の名によって生きる、こ れが私どもの原理なのです。

先週の説教から「自由になる」」 森田進牧師
聖書 ヨハネ8:31〜38
2017年2月12日 受難節前第三主日礼拝
31節、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。32節、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。イエスさまに傾聴し実践するならば、という厳しい条件付きなのです。
真理と自由は、勝手気ままな解釈、したい放題だとはき違える輩が多い。支配層には歴史の現実が、苦しむ人々が見えない。 だからイエスさまは切り返す。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。 罪からの解放とは何か、自由を求める渇きさえないという鈍感なエリートなのだ、と。
35節「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」。 父の家とその中にいるイエスさまの事実と比喩なのだ。36節「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。
37節「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。 だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている」。論理が飛躍していてどういう意味か分からず心の揺らぎを覚える人もいるだろう。 その揺らぎの中から考えるのだ。38節「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」。これは明らかに血筋上の父親のことだ。世俗的な自分らの位置の正当性意識の考え方しか出来ない。
 58節、決定的な言葉がイエスさまの口から飛び出す。「『アブラハムが生まれる前から、わたしはある』」。59節「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」。44節「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。彼の内には真理がないからだ」。真理と自由は、イエスさまが与えて下さったのであり、その喜びを生き抜いて行きましょう。

先週の説教から「落ち穂」 森田進牧師
聖書 ルツ記2:17〜23
2017年2月5日 顕現後最終主日礼拝
モアブの娘たちと結婚した二人の息子も死んでしまってやもめになったナオミは、二人の嫁に故郷に帰るように勧めた。モアブ人同士の再婚が一番安定した選択であったからだ。が、マフロンの嫁だったルツは、姑と共にベツレヘムへと移り住む決断をした。ナオミは、夫と二人の息子を奪われて、絶望のどん底に落ち込んでいた。
さて、ナオミの亡き夫エリメレクの一族にはボアズという有力な親戚がいて、落ち穂拾いをするルツに好意を示し、やがて激しい恋の焔に焼かれて求婚するまでに至った。その間の会話のやり取りは、万葉集時代の歌垣のようだ。13節、「あなたのはしための一人に及ばぬこのわたしですのに」、「こちらに来て、パンを少し食べなさい」。それを知ったとき、姑のナオミは知恵を授けます。「今晩、麦打ち場に下っていき、あの人の裾で身を覆って横になりなさい」と。これは、苛酷なうつろな状況に追い込まれたナオミが、ようやっと見いだした希望の光なのです。
最終4章、ボアズはゴーエール制度(家を絶やさないための買い戻し)を実行する。そして晴れてルツを妻として迎えて祝福を浴びた。二人の間には、息子オベドが与えれた。 しかし、「ダビデの系図」には、ナオミとルツの名前は出て来ません。この書は「ルツ記」なのに、です。異民族モアブの女は、ユダヤの正式な共同体の構成員としては認められない。にもかかわらず、「ルツ記」が旧約聖書に採用されている事実から何を学び取れるかは明白です。女性の偉大な働きを神さまは高く評価してきたという事実なのです。
大泉ベテル教会は婦人会で持っていると言ったら言い過ぎでしょうか。女性の本質と共にある、歴史に注がれる神さまの眼差しに感謝しましょう。

3月の説教 1月の説教 トップへ

© 日本キリスト教団 大泉ベテル教会.All Rights Reserved.