更新

  • 2017年3月26日 : 「自分を救う」森田進牧師
  • 2017年3月19日 : 「そんな人は知らない」森田進牧師
  • 2017年3月12日 : 「霊によって」森田進牧師
  • 2017年3月5日 : 「値踏みされた者」森田進牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2017年3月
先週の説教から「自分を救う」森田進牧師
聖書 ルカ 23:32〜43
2017年3月26日 受難節第四主日礼拝
3本の十字架刑に架けられた3人の囚人の関係をめぐるドラマは、ここにしか登場しな い。地名「されこうべ」は、いまだに特定されていない。 イエスさまの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。赦しの祈りが十字架刑の現場から始まっている。「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」。議員たちは、悪魔の代役を演じている。
さて、ルカは、犯罪者にとっての十字架と、イエスさまにとっての十字架の意味を問い直すのだ。おそらく右の囚人がたしなめる。「我々は、自分のやったことの報いを受けている(略)。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。さらに付け加えて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。
これはひたむきな信仰告白だった。だからイエスさまはお答えになった。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この時、まさに、永遠の神が私の今日の中に突入してきたのです。 二人の囚人の最後は、聖書には何も記されてはいません。が、もう一人の囚人もまた、 最後の息絶え絶えの時に、「主よ、イエスよ」と告白したに違いありません。そして安らか に神の国へと招かれたと私は確信しています。
主の十字架刑は万人を救うためにあったのです。私共も御国の住民なのです。喜びを持って生き抜きましょう。

先週の説教から「そんな人は知らない」森田進牧師
聖書:マタイ 26:69〜75
(2017年3月19日)
鶏は、旧約には登場しない。福音書のペテロとの関係でしか登場しない。
ユダに裏切られたイエスさまは、官憲に逮捕され、即席裁判にか けられた。イエスさまは3回問い詰められた。ペテロは3回、「イエ スと一緒だった」と指摘された。イエスさまの一貫した沈着な堂々 とした態度に比べて、ペテロは主を否む。ペテロは、こりゃあまず い、と、すたこらさっさと逃げ出したが、またしても新たな証人が 現れた。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。「そんな 人は知らない」と誓って打ち消したペテロは、誓ってしまった時、 イエスさまに申し訳ないと思って、ちらっと主イエスの方を見遣っ た。イエスさまは振り返らなかった。人々は、「確かにお前もあの連 中の仲間だ」と言った。「そんな人は知らない」と誓い始めた。する とすぐ、鶏が鳴いた。たった数時間前、ペテロは「たとえ、御一緒 に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決 して申しません」と言ったばかりなのだ。
一方、ルカは、「突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめ られた」とある。ここは見逃すわけにはいかない。鶏を通して、人 生の決定的な時が告げられたからだ。絶望のどん底で主イエスとの 決定的な出会いがあった。目覚めよと鶏が知らせていたのです。「そ して外に出て、激しく泣いた」。この時、主の目が語っていたものを、 私どもは直感的に掴み取らねばならない。そして、何故その後のペ テロが、目覚ましい宣教をしたのか。「激しく泣いた」の部分に潜ん でいるのは、きっと論理を越えた、恐ろしいような、しかも聖なる ものに抱き抱えられるドラマに違いない。やがてペテロ殉教の伝承 が生まれた淵源もここにある。
「主は振り向いてペテロを見つめられた」ように、私ども一人ひ とりを見つめられたのに、気が付かない存在であることに気が付く 地点から、また1歩ずつ歩み始めましょう。私どもは、すでに知られ ており、見つめられているのです。そこに気が付いた時、初めて主 にある平和が生まれるのです。ハレルヤ。

先週の説教から「霊によって」森田進牧師
聖書:ヨブ記 42:1〜6
ロマ書 8:10〜11
(2017年3月12日)
ヨブは、ウツの富豪、無垢、正しい人で、神を畏れ、名誉と財産 にも恵まれていた。しかし突然三日間で子ども全員が殺害され、財 産も失い、全身腫物ができて醜くなり苦しみ続ける物語です。受け 入れがたい苦悩は、不条理として捉えられている。神に向かって、 納得できる答えをくださいと求めている。耐えねばならないことと はどういう意味があるのかを神に問うている。他人事ではない。私 どもにも今日襲いかかってくるかも知れない。ヨブは、友人たちの 道徳的な説得に対しては反論、神には論争を挑んでいる。この部分 は韻文(詩)であるのは興味深い。比喩に満ちている。
さて、神はヨブの挑戦には乗って来ません。が、最後には、主は 砂塵の中から、答えて仰せになるのです。猛烈な勢いで喋りまくっ た、と言いたい。ヨブ記28章以下41章26節まで。それらは、 熊や鹿、山羊、野生の驢馬、野牛、駝鳥、鷲らの荒々しい世界、そ してベヘモットやレビヤタンという獣が跳ね回る世界なのです。  いったい神は何を語ったのでありましょうか。弱肉強食の現実が 生々しく再現されている。その猛々しさを描き出す神の前で、圧倒 されていくヨブ。
この自然界の現実が映し出され、神は次々とヨブに思いがけない 質問を浴びかけていく。その時、ヨブは、今まで体験して来た現実 に続いている世界に対して、奥行きのある新しい認識に襲われたの であります。塵埃である私を、最後まで応答し続けてくださった神 に対する感動が涌き起こり、このまま救われていることを実感でき たのです。これがロマ書の「霊によって」の結論です。旧新約聖書 を貫くのは、永遠の命を生きる神さまによる恩寵なのです。

先週の説教から「値踏みされた者」森田進牧師
聖書 マタイ 27:3〜10
2017年3月5日 受難節第一主日礼拝
小見出しは、「ユダ、自殺する」。イエスさまの裁きの場面です。最高法院は、夜の間に、イエスさまを神を冒涜した最大の犯罪人として裁いた。が、最高法院には死刑宣告の権限は一応ありますが、帝国から派遣された総督が執行する決定権を持っている。そのためには、帝国の秩序を脅かす政治犯に仕立てあげねばならなかった。
ユダの心を代弁しよう。「儂の信じたイエスさまは、きっと立ち上がる。儂は、イエスさまに従う一行の伝道にかかる費用の一切を工面してきた。誰も知らないだろうが、じつは儂はユダヤ独立を目指す武力解放戦線地下組織の一員だ。イエスさまは、帝国に反旗を翻して立つ時がきっと来る。儂は、その決起の日のために資金も着々と用意してきた。他の弟子たちにはこんな才覚はない。それなのに、昨晩、主はこう言った。『人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった』。あの言葉は残酷だ。あの時、儂は憤然として夜の中に飛び出し、泣いた。儂の最後の期待と求愛を分からなかったのは、主よ、あなた、だ。馬鹿だった。銀貨30枚、祭司長たちは主と儂を値踏みした」。が、もう遅い。ああ、主を奪い返すことはできない。
さて21世紀に生きる私どもはユダではない。が、無関係ではない。あの日十字架刑にかかった主を見捨てて弟子たちは逃亡した。みな裏切り者になった。ユダは首をくくって死んだ。 ユダの誤算はどこにあるのだろう。それは、ユダの夢と愛の過剰にある。イメージの中のイエスさまへの独占欲にある。誠実過ぎるほど、本気であるだけに手直しが効かないある種の狂気が、ユダを駆り立てていったのだ。私どもの中に潜むユダを克服して、慎重に大胆に行動していきましょう。

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