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礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17![]() ![]() |
これまでの説教要旨 2018年11月 「救いの完成」 坂井賢治牧師 聖書 サムエル記下 5:1〜5 コリントの信徒への手紙一 15:20〜28 2018年11月25日 終末主日礼拝 (収穫感謝祭) コリントの信徒への手紙一15章20節に、「しかし、実際、キリストは、死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と著者は、記しています。この言葉は、私たちにとって真に大事なことです。キリストの復活がなければ、私たち自身が復活することはないからです。 パウロが言っているように、キリスト一人だけではなく、私たちも復活出来るとなれば、死を乗り越えることが出来、安心するでしょう。 主イエスが十字架の上で死なれたのは、私たちが神様に背き、従わない罪から私たちを救って下さるためでした。これは、罪からの救いです。しかし、本当の救いは、死からの救いです。キリストが眠りについた人たちの初穂となられたことこそ、真の救いです。 復活は、再生ではなく、新しい命に生きることです。全く別な命が与えられ、新しく造り変えられることです。 パウロは、復活には順序がある、と言っています。最初に、キリストの復活があり、次に、イエス・キリストが再びこの世に来られる再臨の時に、キリストに属する人たちが復活します。キリストにあって死んだ人々の復活であり、その時、地上に生きているキリスト者には、死を見ずに、朽ちることのない体が与えられます。これが救いの完成です。 次いで、世の終わりが来ます。終末とは、全てのものの完成を意味しています。 いよいよアドベントを迎えようとしています。良きクリスマスを迎える準備の時としましょう。 「人は、神によって生きている」 坂井賢治牧師 聖書 出エジプト3:1-15, ルカ20:27-40 2018年11月18日 終末前主日礼拝 死者の復活を認めないサドカイ派の人々が主イエスに、「復活について」質問しました。主イエスが復活を強く主張すれば、モーセと神の啓示に反する罪で訴えることが出来る、と考えたのでした。 主イエスは、復活に関する間違いを指摘し、天国は、この世を単に、完全にしたものではないこと、また全く別の世界で、私たちの理解を遙かに越えた神の世界である、と答えられました。彼らは、復活や天国を理解出来ていなかったのでした。 彼らが根拠として用いた出エジプト記3章1節以下において、神は、御自身をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいました。神は、生きている者の神であって、既に死んだ人間に対して、「わたしはアブラハムの神----」と言われることはありません。人間の目には見えなくても、神がこのように言われる以上、彼らは、神によって生きているのです。 神は、創造者であり、御自身の内に命を持っておられ、死を経験されないお方であるから、信仰によって神との関係に入った者、神の子とされた者は皆、神の命に、永遠の命に与り、神と共に生きているのです。 私たちは、洗礼において、主イエスと結ばれ、神のものとなり、神は、私たちの神になって下さるのです。この世の命が終わった時、神は、「わたしはあなたの神である」と言い続けて下さるのです。それ故、死んでもなお、神によって生きているのです。 「洗礼者ヨハネ現れる」 坂井賢治牧師 聖書 創世記18:1-15 ルカによる福音書3:1-14 2018年11月11日 終末前々主日礼拝 ルカによる福音書3章1節以下でルカは、洗礼者ヨハネの活動時期を皇帝ティベリウスの治世15年と記し、それは紀元28-29年頃でした。主イエスの十字架の出来事は、ここには明確には記されていませんが、登場人物を通して理解することが可能です。そして、神様は、主イエスの十字架の出来事を通して救いの道を示されたのです。 荒れ野にいたヨハネに神様の言葉が降り、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝え、これによって人々を悔い改めに導くように命じられたのでした。 ヨハネの求める悔い改めは、ただ単に、「悪かった」と謝るだけでは足りません。悔い改めるとは、第一に、神様に背き、憎み、それ故、隣人を愛することなく、憎んでしまう罪を認めること、第二に、神様の方に向きを変えることです。 そこで、群衆は、わたしは、どうすればよいか、と尋ねました。ヨハネは、隣人の不足に愛の配慮をすること、分かち合うことを求め、徴税人には、「規定以上のものを取り立てるな」と言い、兵士には、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」と言いました。 洗礼者ヨハネは、救いの到来の道備えをした人物でした。 私たちは、間もなく、アドベント、クリスマスを迎えます。アドベントは、救いの到来を待ち望み、その備えをする時です。「主イエスよ、来て下さい」 と祈りつつ、待ち望みたい、と思います。 「神様は共にいてくださる」 坂井賢治牧師 聖書 詩編51:3-11, ローマ3:21-28 2018年11月4日 三位一体後第二十三主日礼拝 (召天者記念礼拝) 今日は、召天者記念礼拝です。 一人の人間の生涯は、苦しみが多く、死んでようやく解放される、という思いになる人がおります。それは、苦しく辛い生涯となってしまいます。 聖書では人間は、神に背き、従わず、離れてしまうことによって、また最初の人アダムが神様との約束を破った故に、人間は罪を負うことになりました。そのため、神様との良い交わりが破られ、交流することが出来ない状況に陥れられました。これも苦しく辛いことです。 著者パウロは、ところが今や、と言って新しい展開を語り始めます。人間の罪から神の義(正しさ)への展開です。神の義は、イエス・キリストを信じることにより、信じる者全てに与えられるのです。 律法を守り、善い行いをすることによって人間が救われることはありません。人間が罪を犯したままで救われる唯一のことがあります。それは、主イエスを救い主である、と信じることです。主イエスが罪を犯した人間に代わって、罪の裁きを十字架の上で受け、死なれた故に、神様の人間に対する無限の愛と無償で人間を正しい者として救って下さったからです。 「神様は共にいてくださる」とは、罪が赦され、主イエスの十字架によって、神様との間に和解が成立し、神様との正しい関係を保つことが出来るようになったからです。 既に天に帰られた方々は、今、天国にあって神様と共に憩っておられることを信じます。彼らは、主イエスを信じて地上の命を全うされたのです。 私たちも信仰の先輩たちを見習って、毎週礼拝に集い、イエス・キリストを信じ、救いに与りましょう。 2018年12月の説教 2018年10月の説教 トップへ © 日本キリスト教団 大泉ベテル教会.All Rights Reserved. |