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  • 2019年2月24日 : 「中風の人のいやし」    坂井賢治牧師
  • 2019年2月17日 : 「わたしに倣う者」   坂井賢治牧師
  • 2019年2月10日 : 「安息日の主イエス」    坂井賢治牧師
  • 2019年2月3日 : 「主イエスの新しい教え」    坂井 賢治 牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2019年2月
「中風の人のいやし」    坂井賢治牧師
聖書  ヨブ記2:1-10
ルカによる福音書5:17-26
2019年2月24日   受難節前第二主日礼拝
ルカ5:17-26には、中風の人のいやしについて書かれています。
当時、病気は、神様に対する罪の裁きのしるしと考え、それ故、病人は、神様の裁きを受けて、中風を患い、神様に見放された、と思って生きていました。どんなに大変な人生でしょう。
ある日、男たちが中風の人を主イエスにいやして頂こう、と床に乗せて運んで来ました。しかし、家の内外が既に人で溢れかえり、中に一歩も入ることが出来ませんでした。すると、彼らは、屋根に上って瓦の間から、この人を床に乗せたまま、主イエスの前に降ろしました。何と無茶なことをする人たちでしょう。しかし、主イエスは、彼らの行動を咎めるどころか、彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。主イエスが認めた彼らの信仰とは、中風の患者をいやすことが出来るのは、主イエスのみであるという単純な確信、何としても主イエスの所へ患者を運んで行くことである、という確信でした。
また主イエスは、中風の人に、「起き上がり、床を担いで、家に帰りなさい」と言われると、彼は病がいやされ、新しい人生へと歩み出したのです。
主イエスは、病をいやす人であり、人間の罪をも救うことが出来る救い主であることが人々に鮮やかに示されたのでした。
男たちの大胆な行動は、友人に対する執り成しの祈りがあった、と考えられます。
私たちも自分のことだけでなく、家族、友人や知人の救いのため、世界の平和と人々の救いのためにも愛を持って祈りましょう。

「わたしに倣う者」   坂井賢治牧師
聖書 箴言3:1-8
コリントの信徒への手紙一 4:8-16
2019年2月17日  受難節前第三主日礼拝
コリントは、ローマ帝国のアカイヤ州の州都であり、交通の要所、商業都市として最も繁栄した地方都市でした、キリスト教の教えを受けながら、彼らは、道徳的腐敗と内部紛争で混乱していました。ですから、必ずしもパウロの教えに従った者が多かった訳ではありません。また彼らは、自分たちを誇り高慢になっていました。
パウロは、家柄、教育、知識、熱心さにおいて当時のユダ人としては大人物であり、コリントに伝道し。コリント教会の基礎を築きました。
パウロは、今まで、厳しい内容と皮肉をまじえた手紙を書いていたが、それは、コリント教会の生みの親であり、彼らの信仰の父親という自負から。
彼らにキリストの教えに従うこと、高ぶりを止めるように諭すためでした。だから、彼らに、「わたしに倣う者となりなさい」と言い得たのです。これこそ傲慢に聞こえる言葉ですが、彼は、その内容を、「イエス・キリストに倣う者になりなさい」と考えていたのです。当時、人々には、自由に聖書を読む機会が少なかったので、イエス・キリストに倣おうとしても簡単ではありません。そこで、主イエスに倣って忠実に生きているパウロに倣うことが手っ取り早い方法であったので、このように言ったのです。
私たちは、キリスト者の一人として、イエス・キリストに倣って、正しく、愛を持って、忠実に生きる者として努力したいのです。
そうすることによって、周囲の人々は、それを見て、イエス・キリストを知り、キリスト教に興味を持つようになるでしょう。

「安息日の主イエス」    坂井賢治牧師
聖書  出エジプト20:8-11
ルカによる福音書6:1-11
2019年2月10日  顕現後最終主日礼拝
ルカ6:1-11には、安息日を巡る主イエスとファリサイ派との対立が書かれ、この対立を通して、主イエスはどのようなお方か、ということを明らかにしています。
安息日については、出エジプト20:8-11に、神様が天地創造のみ業を六日間で成し遂げ、七日目に休まれたから、安息日を心に留め、これを聖別せよ、と言われ、いかなる仕事もしてはならい、と記されています。その日、神様は、ご自身の造られた被造物を祝福し、その祝福の中に招いて下さるのです。
対立の発端は、安息日に弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べたこと、また主イエスが手の萎えた人をいやしたことでした。
主イエスは、自ら「人の子は安息日の主である」と唱え、
人の子、とは、神様から遣わされた方ということで、安息日に何をするかは、御自分が定める立場にある、とおっしゃいました。
ファリサイ派の人々は、弟子たちや主イエスのしたことが安息日規定違反であると言いますが、安息日に行われることは、命のためであり、愛のためであって律法を越えたことでした。
安息日で大切なことは、犠牲を献げるだけ、という意味での安息日律法を守ることではなく、神様の恵みに与ることであり、神様の憐れみが行き渡るようにすることです。
私たちも今、日曜日毎に、人間の生活を中断して、何よりも心と体に休息を与えています。
そうすることによって、私たちは、神様の創造のみ業と神様の恵みに感謝するのです。

「主イエスの新しい教え」    坂井 賢治 牧師
聖書 エレミヤ書 13:1〜11
ルカによる福音書 5:33〜39
2019年2月3日     顕現後第四主日礼拝
主イエスは、二つのたとえ、新しい着物と古い着物のたとえ、もう一つは、新しいぶどう酒と古い革袋のたとえを語りました。
新しい着物から布きれを切り取り、それを古い着物に継ぎ当てすることは、 糸の強さが違う二種類の布ですから、新しい着物も古い着物も駄目になってしまいます。
主イエスの新しい教えの一部を取って、彼らの古い考え方に継ぎ当てするようなことは間違いである、と言っているのです。 信仰とは、古い着物を脱ぎ捨て、新しい着物を着ることに他なりません。
更に、新しいぶどう酒は、発酵力が極めて強く、膨張を伴うので、 古い革袋は、それに対応するだけの柔軟性と弾力を失って破裂してしまう恐れがあります。 そうすれば、ぶどう酒も、革袋をも駄目にしてしまいます。
新しいぶどう酒とは、主イエスによって罪赦され、主イエスの恵みのもとに生かされている新しい生活です。 これは、古いファリサイ派の人々の生活態度とは相容れないものです。
人は、古い律法や掟を守ることでは救われません。律法を守ろうとする苦しみや重荷だけが人間にのし掛かってきます。
その苦しみや重荷から解き放って下さったのが主イエスでした。
主イエスは、私たちに喜びの福音を与え、苦しみ、荷、罪や死から救い出して下さり、 更に、神の国にあって永遠に生きることが出来ることを教え、約束して下さいました。 それ故、主イエスを信じる信仰だけが新しいぶどう酒を容れるに相応しい新しい革袋なのです。
私たちは、主イエスの新しい教えによって喜び、希望そして平安を得ることが出来、 新しい人生を歩むことが出来るのです。

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