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  • 2019年8月25日 : 「主の来臨に備える」   坂井賢治牧師
  • 2019年8月18日 : 「幸いな人」     森 史子 牧師
  • 2019年8月11日 : 「キリストも、罪のために苦しまれた」 坂井賢治牧師
  • 2019年8月4日 : 「婦人たちの献身」    坂井賢治牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2019年8月
「主の来臨に備える」   坂井賢治牧師
聖書  エゼキエル書12:21-28
ルカによる福音書12:35-48
2019年8月25日 三位一体後第十主日礼拝
「待つ」とは、ある事、ある人や時が来るのを予期し、願いながら、それ迄の時間を過ごすことです。あるいは用意して備えるという意味もあります。
ルカ12:35で、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と勧めています。腰に帯を締めるとは、着物を腰の部分に帯でしっかりと締めてまとめておくこと、またともし火をともすとは、ご主人が帰って来るのに備えて明かりを準備することです。そして、帰ってきた時に、直ちに行動出来るようにするのです。
私たちには真の主人がいます。それは、イエス・キリストです。主イエスは、私たちを救うためにこの世に来て下さり、十字架の苦しみを受けられ、そして、復活されて死に勝利なさったことを思い起こしつつ、主イエスが再び来て下さる、という希望と喜びに生きるのです。
主イエスが戸口のドアを叩いたなら直ちに、開けて主イエスを明かりで照らしましょう。そして、従って行くのです。
そのために、私たちは、神様を信じ、主日礼拝を正しく守り、善い業に励むことであり、また,日々、聖書を読み、祈ることです。
エゼキエルは、神様のみ言葉は必ず成就する,と言っています。私たちは、そのことを信じて、み言葉を聞き、この地上の生活を腰に帯を締め、ともし火をともし、再び来られる主イエス・キリストを待ち望みつつ生きていくのです。

「幸いな人」     森 史子 牧師
聖書   マタイによる福音書 5:1?12
2019年8月18日   三位一体後第九主日礼拝
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)
主イエスの言葉です。3節の心は、原語(ギ)で「霊」の意味です。霊が貧しい、霊が死んでいる人。「心豊かな人」ではないのです。聖書で言う幸せは、世の求める幸せとは全く違っています。自分に自信がなく、生きる意味がわからない、実感がない、人生が空しい、心が飢え渇いている人達が幸いだと言うのです。
そして、天国はその人達のためにあると言われました。
この世の幸せは、より多くのものを持ち、より高い地位を目指し、人に認められること。
しかし実際には、どれだけの人が満足し安心して平和に暮らしているでしょうか? 聖書では、本当の幸せは天の国(神の国)に入ることだと言っています。それは、罪を赦してくださる主イエスの愛の支配の中に入ることです。天国とは、神の権威に全てのものが従う領域のことです。
自分自身の心の貧しさ、罪深さに悲しみ、神なしでは生きられないと気づいた人が4節の悲しむ人なのです。
今日の箇所で、主イエスに幸いであると言われている人々「柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人等など」は、人間には完全に実現できることではありません。しかし主イエスは、人間となって地上で実現されました。私たちは「神以外に誇るものはない!」のです。自分の霊的な貧しさ、霊から離れていること、自分の内に誇るものがない、霊的には哀れなものであることに気付くことです。
そして、ただ神の憐れみと助けにすがり生きる人が「幸いな人」だと、主イエスは宣言しておられます。感謝です。

「キリストも、罪のために苦しまれた」 坂井賢治牧師
聖書  詩編13:2-6
ペトロの手紙一3:13-22
2019年8月11日  三位一体後第八主日礼拝
ペトロの手紙一は、ローマ帝国におけるキリスト教迫害で苦しむ読者を励ますために書かれた励ましのメッセージです。
著者は、善を行い、苦しみ、忍ぶことは、主イエスの十字架の後に従うことである、と主張しています。
18節以下で主イエスのみ業とその意味に目を向けさせ、主イエスの苦しみに与る道を示しています。「キリストも,罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです」と言って、迫害を受けている人々の目を主イエスご自身の苦しみに向けさせるのです。
十字架の死の目的は、正しくない者たちの罪を赦し、彼らを神様のもとへ導くためでした。正しい方が苦しまれたとは、死ぬということであり、罪ある人の身代わりとなって下さった、ということです。即ち私たちのために死んで下さった、ということなのです。主イエスは、肉体としては死にましたが、霊においては、生きる者とされ、霊において十字架の死後、使徒信条にあるように陰府にくだり、死者の所へ行かれ福音を伝えたのでした。
キリスト者が洗礼を受けた、ということは、主イエスの十字架と復活がもたらした新しい創造が自分自身にも起こっていることを確証させるのです。その確信が洗礼を受けた者に苦しみの中にあってもなお、良心に生きることを可能にしているのです。
意味の無い苦難、ただ踏みつけられ、馬鹿にされているような経験は、苦しいだけなのでしょうか。そうではありません。そこには、神様のみ心があり、神様の祝福があるのです。

「婦人たちの献身」    坂井賢治牧師
聖書  詩編97:7-12
ルカによる福音書8:1-3
2019年8月4日  三位一体後第七主日礼拝
             (平和聖日)
ルカ8:1-3は、短い個所ですが、大変興味深い個所です。そこでは、主イエスの福音宣教の様子がはっきりと分かります。町々や村々を巡って旅をされ、神様のご支配がそのところにあることを告げていました。
現在の教会の務めも主イエスの当時と同様で、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる」ことに他ならないのです。
主イエスの宣教の旅には、十二使徒と大勢の婦人たちが同行していました。主イエスや使徒たちが福音宣教に専念している間、食事の準備、宿泊場所を決めること、衣服の洗濯や繕い、テントの運搬や設置は、同行していた婦人たちが担っていました。彼女たちは進んで仕事を引き受け、彼女たちの献身と献金があって、主イエスと十二使徒の宣教が支えられたのでした。
著者は、三人の女性の名前を挙げて説明しています。いずれも主イエスによって悪霊を追い出してもらい病気をいやして頂いた婦人たちでした。マグダラの女と呼ばれたマリア、クザの妻ヨハナ、そしてスサンナです。彼女たちとその他の名前が挙げられていない婦人たちは、主イエスの十字架の後、それぞれが所属する教会へ戻ったことでしょう。主イエスの宣教の旅とその生活を教会の中で繰り返し証しし、そのことが喜びであり,幸いであった、と語ったことでしょう。
現在の教会にあっても様々な働きは、女性の奉仕に負うところが大きいのです。また女性たちは、教会の外でもよく働き、施設や老人ホームでの奉仕、ボランティア活動などを通して人々にキリスト教を、また教会を証ししているのです。

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