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  • 2019年9月29日 : 「天への道」    森 史子牧師
  • 2019年9月22日 : 「主イエスの弟子とは」  坂井賢治牧師
  • 2019年9月15日 : 「宴会のたとえ」 坂井賢治牧師
  • 2019年9月8日 : 「わたしたちは主のもの」  坂井賢治牧師
  • 2019年9月1日 : 「福音の磁力」      坂口 順治 氏
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2018年9月
「天への道」    森 史子牧師
聖書   ヨハネ 14:1〜6
2019年 9月29日 三位一体後第十五主日礼拝
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)
主イエスは、ご自分が父のもとに戻る時が来たことを知り、愛する弟子たちがこれから味わう不安や落胆、ショックな出来事を思い、励まし語っています。私たちが苦しみの中で心を鎮めることが出来るのは、信仰だけです。神を信じ、主イエスを信じることです。これから主イエスが、十字架で処刑されることを実感できない弟子たちに対して、彼等の足を洗い愛の限りを尽くしました。同時に弟子たちを案じて、多くの大切な言葉も語られました。
それは、全てを捨てて主イエスに従って来た弟子たちへの深い愛のメッセージでもあります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」主イエスを通るとは、どういう意味なのか?
主イエスの死と復活が、このみことばを明らかにしてくれました。神は聖なる方です。聖さに輝く神が、罪に塗れた私たち人類を赦すことなどできません。
しかし、神の赦しを受ける唯一の道が残されています。それが、神の御子イエス・キリストの十字架の死なのです。自分の努力や善行によって赦されるのではないのです。主イエスは、私たちの罪の身代わりとなって死なれたのです。
主イエスの十字架の死は、「わたしの罪のため」だと解った瞬間、主イエスを通って私たちは、天への道を歩き始めることが出来るのです。 ハレルヤ!

「主イエスの弟子とは」  坂井賢治牧師
聖書  詩編 142:2-8
ルカによる福音書 14:25-35
2019年9月22日 三位一体後第十四主日礼拝
ルカ14:25には、主イエスが再び十字架に架かるためにエルサレムへ向かう旅を始めたことが記され、大勢の群衆が主の後について来たことが書かれています。主は、彼らの方をわざわざ振り向いて、「私の弟子である者の覚悟」を明らかにされました。
第一に、主イエスは、「父、母、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」、第二に、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない」と言われました。これは、家族のことを思ってはいけない、と言っているのではなく、また家族に憎しみの思いを持つことでもなく、先ず主イエスを愛することです。 そして自分の命よりも主イエスを愛する、ということです。
更に、私たちの十字架は、私たちが主イエスの後に従う時に背負うものであって、辛いこと、苦しいことが自分の十字架ではありません。真実に主イエスに従う者は、この世から解放され、この世の欲から自由になり、自分自身からも解放されて、ひたすら主イエスと共に歩む者です。
主イエスに従う、ということは、私たちの身も魂も主イエスのものであり、自分の全部をささげて主イエスに従うことが求められています。そうすれば、主イエスの愛を担って、この世で生き、共に生きる人々の所へその愛を伝えることになります。

「宴会のたとえ」坂井賢治牧師
聖書  詩編31:15-25
ルカによる福音書14:7-14
2019年9月15日  三位一体後第十三主日礼拝
ルカ14:1-14に食事に関することが三つ述べられ、第一には、1-6節に、主イエスが安息日に食事に招待され目の前にいた水腫を患っている人の手を取って安息日にも拘わらずこの病人を憐れに思い、ファリサイ派の人々の前でいやされました。
第二に、7節以下で招待客が上座を選ぶ様子に気付かれ、「婚宴に招待されたら、上座に着いてはならない」と言われました。上座に座りたがるのは、自分はそれに相応しい資格があると思い、同様に、神様に認められる資格があると思い込んでいるからです。
主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言っておられます。
第三に、12節以下で招いてくれた人に対して食事会を催す時には友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない、と主は言われた。
彼らは、お返しをするかも知れないからです。主の言葉はファリサイ派の人たちに対するもので、彼らには貧しい人、体の不自由な人などを食事に招くことなど考えられませんでした。ファリサイ派の人々は、神様から受ける報いよりも人から受ける報いを期待していたからでした。
高ぶる者には、自分の身分の高さ、傲慢や自惚れがつきまといます。自分は、神様に認められている人間だ、と思い込んでいても、実際、そこには、神様はおられません。低さが必要です。身を低くすることは、身を低くしたことによって表れる苦しみを背負うことです。それは、主イエスのなさったこと、神の御子が自らを低くされ、人間となられ、人間と同じ苦しみに遭われたことでした。
自分を低くすることは、この神様に全てをお任せすることによって初めて出来るのです。主イエスは、「宴会のたとえ」を通して私たちに自らを低くすることを教えて下さったのです。

「わたしたちは主のもの」  坂井賢治牧師
 聖書  出エジプト記23:10-13
ローマの信徒への手紙14:1-9
2019年9月8日  三位一体後第十三主日礼拝
「交わり」とは、神様との交わりであり、神様が人間を交わりに加えて下さったのです。そして、神様との交わりに招かれているキリスト者は、キリスト者相互の交わりに招かれ、教会においてキリスト者の交わりは,完成されるのです。
ローマ14:1以下で,「教会の交わり」を語っています。「信仰の弱い人」とは、偶像礼拝にささげた肉を食べることを恐れて、肉は食べず、野菜ばかり食べる人や安息日や特定の記念日などを他の日と区別して大切に考えていた人たちを指しています。「強い人」とは、全くそのような定めに束縛されず自由に生活している人々を指しています。しかし、神様は、弱い人も、強い人をも受け入れて下さったのですから、パウロは、勝手に批判したり、軽蔑することを許しませんでした。
7節にある「主のため」を考える時、キリスト者は、主のために生き、そして死ぬことは、キリスト者の日常生活の規準である,と言うことが出来ます。特に、キリスト者にとって主イエスは、私たちの主となって下さるために、死んで、そして復活なさったのです。私たちがあらゆることに当たって,主と結び付いているのは、主が私たちの主であり、私たちは、この主のものであるからです。
神様の救いの経験は、生も,死も神様にお委ねすることへと進みます。主に救われたのだから、服従して生き、救いの経験や神様に全てをお委ねする意識を持って、日常生活の業に励むことです。

「福音の磁力」      坂口 順治 氏
  聖書    詩 編 23:4
ヨハネによる福音書 14:6
2019年9月1日 三位一体後第十一主日礼拝
一人のハンセン病のクリスチャン(青木安次郎氏)に出会い、信仰の強さ(祈りと実践力)に感服した。彼は、16歳の時発病し、四国巡礼を繰り返したが不治の病であることから、高松の療養所に入り同病の基督者に共感して人生観が変わり受洗した。生きる勇気を根底から支える福音の恩寵を知らされた。療養所内では、所内の学校の教師として、祈りと聖書研究、そして、同病者への奉仕活動を続けた。数年して熊本の私立の回春病院に移り、多くの同病者の模範となって過ごした。聖書研究、祈祷会、文芸創作活動など、差別のない自由な患者の共同体で過ごした。
数年後、過酷な同病者が多い沖縄に渡って、福音を宣べ伝え、同病者の仲間で束縛のない自主的な療養所を造ろうと奔走した。それが後に国立療養所「愛楽園」になった。 人生の不条理を信仰によって克服して、仲間に影響を及ぼす電磁波のような力、差別と闘いながら現実的な決断を下す力、まさしく福音の磁力である。祈りと実践を通して生きる勇気を人々に伝え、恩寵の喜びを示した75年の生涯だった。
晩年に、「痛み経て真珠となりし貝の春」の句がある。

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