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  • 2018年1月28日 : 「神の選び」森史子牧師
  • 2018年1月21日 : 「主イエスの最初の弟子たち」坂井賢治牧師
  • 2018年1月14日 : 「 神から与えられた資格 」伊藤瑞男牧師
  • 2018年1月7日 : 「主に信頼して歩む」小倉和三郎牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2018年1月
「神の選び」    森 史子 牧師
聖書  ヨハネによる福音書 15:13〜17
2018年1月28日  受難節前第三主日礼拝
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがた を選んだ」(16) 主イエスの言葉です。主イエスの選びは、父なる神の選びです。 この一言は、私たちに揺るぎない信仰を与える力があり、この事実 は、私たちを思い煩いや不安、恐れから解放してくれます。なぜな らば、この選びには、大きな犠牲が払われているからです。
「友のために自分の命を捨てこと、これ以上に大きな愛はない」 (13) 主イエスは、この後私たちのために十字架にかかり、命を捨 ててくださいました。最高の愛を表し、その愛に応答する者を、友 と呼んでくださいます。主イエスは、一方的に、自発的に、私たち を愛するがゆえに、ご自分の命を捨ててまで関係を作ってください ました。本当の友となるために、主イエスの方から近づいて来てく ださったのです。人間が、神を選ぶことなどできません。神が、私 たちを、見つけ出してくださり、安心と安全を与えてくださったの です。主イエスから離れず生きる時、神は必ず実を結ばせてくださ います。そして、「互いに愛し合いなさい」という主イエスの命令も 実現しています。

「主イエスの最初の弟子たち」   坂井賢治牧師
聖書 詩編100:1-5, マルコによる福音書1:16-20
2018年1月21日 顕現後最終主日礼拝
主イエスは、ガリラヤで福音宣教活動を始められ、その福音を人々に伝えるためには、協力者が必要でした。 そこで、主イエスは、ガリラヤ湖畔を歩いておられた時に、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの2組の兄弟を日常生活のただ中から召し出し、 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らは、すぐに網を捨て、父や雇人を残して従ったのです。
主イエスのみ言葉に力があり、権威が伴い、また恵みと愛に富んでいたので、直ちに応えたのでした。 彼らは、漁師であり、特別な知恵や知識は持ち合わせていませんでしたが、主イエスに召し出され、大きく変えられ、 神様に用いられ、使命に生きる人生の歩みをたどったのでした。 詩編100編は、全ての民に向かって礼拝への招きがなされています。 喜びの叫びを上げよと神様への賛美を促し、神様のご臨在を喜び、「主こそ、神である」という言葉で神様を賛美したのです。 更に、神こそ創造主であると意識し、人間が何者であるかを知りました。 主イエスが最初の弟子たちを招いた時、神の愛を多くの人々に伝えようとお考えになられたのではないでしょうか。
主イエスの弟子である私たちキリスト者は、主イエスの十字架と復活を宣べ伝えると同時に、神の愛を伝え、実践することが求められて

「 神から与えられた資格 」      伊藤 瑞男 牧師
聖書   創世記 39:23, コリントの信徒への手紙U 3:5
2018年1月14日     顕現後第二主日礼拝
「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるとい うことではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」 ここで、使徒パウロが「資格」というのは、パウロたちがコリント 教会を指導する資格をいうのです。コリント教会への二つの手紙の 中で、パウロが書いていることは、彼らへの勧告、勧めですが、そ の資格があるのか、という疑問を出す人が教会の中にいたというこ とです。言い換えれば、これは、パウロは使徒であるかどうか、と いう問いへの答えです。 この指導者としての資格は、自分で主張したのではなくて、神さまから頂いたものだ、と答えます。
他方、創世記39:23では、ヨセフが無実の罪で牢に入れられたのに、 それに屈せず、たぐいまれなる指導者としての資格をもっているこ とを示しました。それは、「神がヨセフと共におられた」からでした。 しかも、ヨセフは仕えることによって指導者とされたことを示しま す。彼は事実奴隷にされて、その屈辱の中で学んだ謙虚でした。聖 書における指導者は皆仕える指導者です。イエス様ご自身も弟子た ちの足を洗うことによって、その模範を示されました。

「主に信頼して歩む」     小倉和三郎牧師
聖書   詩編89:1〜15,フィリピの信徒へ手紙4:1〜7
2018年1月7日   顕現後第一主日礼拝  (新年礼拝)
新年最初の礼拝に当って、使徒パウロは私たちに、「私の喜びであり、冠である愛する人たち、 主によってしっかり立ちなさい」と呼びかけています。このように聖書は私たちに、聖なる愛を 注いでくださるキリストに全く信頼し、主に従う決意を求めています。「しっかり立つ」とは、 自力で頑張るのではなく、自分のいのちと人生を主に委ねて、キリストの愛に精一杯お答えしよ うと励むことです。
信仰による自立とは、キリストによって救われ、生かされている者として、隣人と出来る限り 愛と信頼をもって共に生きることです。これを実行するためには、私たちは自分の両足をキリス トに委ねることが必要です。一方の片足をキリストに委ね、他の片足でこの世の力や評価に頼って 生きるのでは、いわゆる二足のわらじをはいて生きることになります。
日本の社会でこの生き方を貫くことは容易ではありません。教会に連なるキリスト者は、社会 の中で極く少数者です。そのために私たちは教会内の自分と外の自分とを使い分けてしまいがち になります。キリスト者の経済学者として日本の社会に多大の貢献と足跡を遺した隅谷三喜男さん は、「日本のキリスト者は二階建ての家に住んで、2階の教会では神の恵みをいただき感謝するが、 ウイークデー1階では、この世の人と合わせて生きやすい」と指摘しておられました。日本の 社会で生きる私たちは、キリストの恵みと御心とを少しでも1階の多くの人々と分かち合って生き ることが、「主に信頼して、しっかり立つ」生き方です。

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