更新

  • 2017年12月31日 : 「苦しみから希望へ」坂口順治氏
  • 2017年12月24日 : 「マリアの謙虚」小倉和三郎牧師
  • 2017年12月10日 : 「あなた方は世の光である」明星晃牧師
  • 2017年12月3日 : 「恐れなく主に仕える」伊藤瑞男牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2017年12月
「苦しみから希望へ」     坂口 順治 氏
聖書  ヘブライ人への手紙  11:1
2017年12月31日   降誕後第一主日礼拝
私たちの信仰生活の中で「讃美歌は、神様につながる信仰のリボ ンである」として歌い、祈ります。
そして、慰めと、癒しを与えら れて、生きる勇 気が湧いてくる源泉になります。そこに信仰の喜び があります。シベリウスの交響詩、フィンランディアの曲が素晴ら しい訳詞とともに讃美歌になり、苦し み、抑圧されている人たちに よって歌い継がれて喜びと畏敬の念を表す歌になりました。
また、 ベートーベンの第九の歓喜の歌によって魂の喜びを共感した板東 俘 虜収容所のエピソードを通して、神様への確信を強くしたとき、時 空を超えた世界から見守っておられる恵みを受け、苦しみが希望に 変革できる確認をし ました。
こうしたことから、パウロが言ったよ うに「信仰は目に見えない事実を確認すること」を、今一度私たち の信仰生活の中で噛みしめたいものです。

「マリアの謙虚」     小倉和三郎牧師
聖書  イザヤ書40:1〜8, ルカによる福音書1:40〜56
2017年12月24日   降臨節第4主日 クリスマス礼拝 (聖夜)
イエスの母マリアは、キリスト教が広がるとともに、“聖母マリア”として崇められ尊ばれる ようになった。しかし新約聖書が伝えるマリアは全く違う姿である。ルカによる福音書第1章は、 「おとめマリア」と記すだけで、父母の名も家系もない。マリアはそれほど目立たない貧相な家 の少女(15~16歳)だった。そのマリアに突然、天使が現れて、彼女の胎内に男の子が宿ること、 その子を「イエス」と名づけるよう次げた。ただ驚き、恐れ、困惑するマリアに、天使は「恐れる な、神には出来ないことはない」と約束し励ました。マリアは天使の言葉に励まされ、神の力を信 じて勇気づけられた。そしてマリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成ります ように」(1:38)と、信じて従う決意を表した。ここに信じて従うという、信仰の模範が示されている。 “はしため”とは女奴隷のことで、マリアは今まで人間に仕(つか)えるはしためだったが、これ からは主なる神に仕えるはしためとして歩み出すことになった。「神のはしため」これがマリアの本 当の名前であり、姿だった
今年は私たちプロテスタント教会の誕生500年の記念の年に当たる。修道士マルティン・ルター は修行の苦しみと悩みの中で、ローマの手紙1:17「福音には神の義が啓示されており、正しい者は 信仰によって生きる」の御言葉から福音によって赦され生かされる喜びを全身で味わい、福音の戦 士に生まれ変わり、教会の革新に挺身するため立ち上がった。そのルターは、マリアの賛歌(ルカ 1;46~56)に基づく説教の中で、「神の目は常に下へ、低いところ、苦しむ者へ向かって注がれている。 しかし人間の目は常に上へ、高い目立つところに向かい、自分より低いところを見向こうとしない。」 と説いている。これは現代の日本人と世界の殆どの人々にそのまま当てはまる、と私は痛感する。 けれども、この現実に向かって、主なる神が独り子イエスをマリアから生まれさせ、この世の最も低い ところに送り、神に背く私たち人間の罪を背負わせ、十字架につけて私たちを救ってくださった(フィリピ2:6~8)。
これこそがクリスマスの中心のメッセージである。

「あなた方は世の光である」      明星 晃 牧師
聖書  マタイによる福音書  5:13〜16
2017年 12月10日    降臨節第二主日礼拝
クリスマスです。巷に華美な装飾の光が溢れ、まるでイベントの 主役の華美さを感じます。キリスト者は「世に来てすべての人を照 らす、真の光」(ヨハネ福音書1:9)を讃美します。今日は「光」と いう言葉が持つ喩え的な意味を、二つ考えてみたいと思います。 一つは、人並外れて立派なこと、詩篇8:6の「主は・・栄光と威 光」であるとおり、わたしたちの主なる神、わたしたちの冠であり、 力強く全地に満ちていると讃美する表現です。いま一つは、おぼろ げな対象を照らしてはっきり、良く見えるようにする働きだと言え ます
“見る”とは目の働きですが、日本語では“味をみる”、“湯加減を みる”、“やってみる”など、感覚器官を総動員して他の人々の存在 や物質の性質を体験したり直観することをも表現します。 主イエスは、ご自身の周りに来た遠方からの異邦人、病気や苦し みに悩む人、障害のある人など多様な人々(マタイ4:24-25)、つま り普通の群衆に驚くようなことを仰言いました。
「あなたがたは世の光である」(5:14)と。あなた“がた”と複数 で、つまり、一人ひとり、すべて、です。並外れて立派な特定の人 (単数)ではなく、世にあるわたしたちのことなのです。二人以上 の人たちは“お互いに”世の光です。“照らし合い、照らされ合っ て”生きる。照らした“あなた”を“みて”、照らされた“自分”が どう見られたを、“みつめ”直す体験です。 さらに、一人ひとりを升の下ではなく、燭台の上に置において 人々の前に「あなたがたの立派な行い」(5:16)輝かせなさいと。立 派な行いとは? 人並以上の“栄光・威光・善い”こと? そんな “立派な”ことが、主イエスを囲んだ多様な群衆=わたしたちのだ れにできるのか?
主イエスは、ご自身が「世の光」だと仰言り、「わたしに従う者は 暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」とも。闇の中、升の下、光の無 い状態ではなく、行く手を照らす命の光をもつ、と。主イエスに従 う者とは誰か? 主のお人柄を慕って従った人々、わたしたちでは ないでしょうか。主は、“従う者”に新しい掟=立派な行いを示され ました。「心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神 である主を愛しなさい」(マタイ22:37)と、「わたしがあなたがたを 愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書 13:34)の二つです

「恐れなく主に仕える」     伊藤 瑞男 牧師
聖書  イザヤ書 42:10〜17, ルカ1:67〜79
2017年 12月3日  降臨節第一主日礼拝
「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。『ほめたたえよ、 イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのため に救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。・・・こうして我らは、 敵の手から救われ、おそれなく主に仕える。』」
このみ言葉は、ザカリアの預言で、老年になって与えられた息子ヨ ハネの誕生を喜び、神をほめたたえる讃歌となっています。ザカリ アは、救い主メシアの到来を預言し、ヨハネはメシアを迎える道備 えをする光栄を担うと言います。 ザカリアも救い主イエス・キリストを迎えるために、用いられた 人々の一人となったのです。 ザカリアはエルサレムの神殿に仕える祭司です。「我らは、敵の手か ら救われ、恐れなく主に仕える」というときに、彼は神殿での礼拝 が恐れなく行える日が来ることを望み見ました。それは、主に敵対 する支配者が救い主によって、駆逐されることによってである、と 信じたはずです。しかし、神殿が破壊され(紀元70年)、存在しなく なることによって、礼拝が自由になり、世界中に広がる時代がやっ て来るのです。神のご計画はザカリアの願いをはるかに超えて実現 するのです。
現代に生きる私たちにとって、恐れなく主に仕えることを邪魔する 敵は何でしょうか。悪い人や権力でしょうか。しかし、主イエスは、 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わ たしは既に世に勝っている」と言われました。私たちを恐れさせる ものは、世での苦難です。私たちは苦難を恐れると主に仕えること ができないのです。しかし、主イエスは既に世に勝っておられます。 主イエスを信じるとき、恐れは消えるのです。

1月の説教 11月の説教 トップへ

© 日本キリスト教団 大泉ベテル教会.All Rights Reserved.