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  • 2018年2月25日 : 「神の力によって強くなりなさい」坂井賢治牧師
  • 2018年2月18日 : 「祈りの生活」森史子牧師
  • 2018年2月11日 : 「平和の神が共におられる」小倉和三郎牧師
  • 2018年2月4日 : 「この人も神の民」伊藤瑞男牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2018年2月
「神の力によって強くなりなさい」   坂井賢治牧師
聖書 詩編18:2-7,  エフェソの信徒への手紙 6:10-20
2018年2月25日  受難節第二主日礼拝
エフェソの信徒への手紙の著者は、キリスト者の戦いについて語り、その相手は、「悪魔」である、と言います。 それ故、犯罪への誘惑や、不正や不道徳への誘惑ではなく、悪魔は、もっと深いところにある根源的な問題へと誘うのです。 即ち、人間を神様から引き離そうとします。そこで、主イエスの大いなる力において強くなりなさい、と言っています。それ故、主イエスの中にあって強くなりなさい、と語るのです。 主イエスの中に留まり続けるために、私たちは、聖書を読み、神様へ祈りをささげ、礼拝に出席するのです。
著者は、誘惑や悪魔にそそのかされて、罪に陥ることがないように、神の武具を身に着けて、強くなりなさい、と記しています。 毎日のように襲う悪の勢力に対抗して戦うための準備をし、そして、勝利し、しっかりと立つことが出来るように神様からの武具を着けなさい、と言っています。 私たちの主イエスは、十字架と復活によって既に、悪魔に勝利しているので、どんな敵にも負けることがありません。それを信じて、安心を得るのです。
私たちは、悪魔の誘いに乗ることなく、主イエスの勝利を確信し、 また、神様の武具で守られ、主イエスにあって強くなりなさい、と励まされ、導かれていることを信じて、苦難を乗り越えて行きたい、と願っています。

「祈りの生活」    森史子牧師
聖書   ルカによる福音書 18:1〜8
2018年2月18日   受難節第一主日礼拝
「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため に・・」(1節)主イエスは「やもめと裁判官のたとえ」を通して、 祈りについて語っている。前章の終りで主イエスは、ご自身が再び 来る(再臨)のことを話された。この箇所では、その日を信じて生 きるためには諦めずに祈り続けることが、大切であると教えている。
たとえでは、神を畏れず人を人とも思わない裁判官に弱く貧しい やもめが、必死に訴え助けを求めている。しかし、無視され続けて も一向に諦めず、しつこく訴える彼女の態度に恐れを感じた裁判官 は、裁判を開く決心をする。 主イエスは、諦めないで祈り続けることと同時に、神を信頼して 祈り続けることも教えている。「自分の祈りなんて・・・」「がっか りしないように自分でも実現可能な祈りに・・」等、祈る自分を見 てしまう。また失望を恐れてしまう。 祈りを捧げ委ねる相手は、自分ではない! 主イエスを信じて神 に祈る。
『主を信じる者は、だれも失望することがない』(ロマ10:11) 主 イエスは、終わりの時代に更に祈るようにと命じている。励まし合 いながら神との深い交わりを求めて祈っていきましょう。

「平和の神が共におられる」   小倉和三郎牧師
聖書 レビ記19:9〜12,フィリピの信徒への手紙4:4〜9
2018年2月11日   受難節前第一主日礼拝
使徒パウロは「主において常に喜びなさい」と繰り返し私たちに勧めています。私たちは自分の境遇の良し悪しによって喜んだり悲しんだりします。 しかしパウロは常に喜ぶことが出来た人でした。“常に”とは、どのような状態にあっても、特に逆境の中にあっても喜べる、強く深い喜びです。 パウロが囚われの身でローマに向かう航海の途上、暴風に襲われ遭難の危険が迫ってきて、助かる望みが消え失せた時に、パウロは同船の人々に「元気を出しなさい。神が共におられ守ってくださる」と励ました(使徒9:18~26)。最悪の状態にあってもキリストが共におられるという信仰がパウロを支え、人々を力づけることが出来ました。 「常に喜ぶ」とは、このような経験に基づいています。つまり人間の判断では絶望と恐れ以外にないような時も、 自分の困難を共に担ってくださるキリストとが共におられることを信じる信仰が、私たちにも深い喜びを味合わせ、希望を与えてくれます。
パウロはさらに「思い煩うのはやめなさい」と私たちを戒めています。私たちは行き詰ると、途方にくれて自分独りであれこれと思い煩うものです。 けれどもその時にキリストは共におられ、私たちの思い煩いを受け止めてくださいます。ですから「何事につけ、求めるているものを神に打ち明けなさい」 と勧められているのです(4:6)。信仰の先輩の一人が「思い煩いを主に委ねることは、キリストに思い煩っていただくことだ」と語っています。 パウロが勧める「主にあって喜びなさい」とは、このような信仰の経験を積み重ねることだと思います。

「この人も神の民」  伊藤瑞男牧師
聖書 ルカによる福音書 19:1〜10
2018年2月4日  受難節前第二主日礼拝
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うためにきたのである。」 イエス様はザアカイに出会われました。イエス様を一目見たいと木の上に登っていた彼に、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。ザアカイは大喜びで、イエス様と一行を迎え入れ、歓待しました。 しかし、これを見た人たちは皆、恐らく弟子たちも含めて「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきました。 ザアカイは、悪名高い徴税人の頭で、大金持ちだったからです。彼は、ユダヤ人の社会からはのけ者にされていました。 彼は、イエス様が食事の席で話をなさったあとと思われますが、立ち上がって、自分の財産の半分を貧しい人々に施すこと、もし誰かから不正に税金を取っていたら4倍にして返す、と宣言しました。
冒頭の言葉は、この時主が言われた言葉です。
ザアカイはユダヤ人であり、アブラハムの子孫の一人でしたが、そのことはまったく忘れ、異邦人のように生きていました。しかし、イエス様の噂を聞き、どうしてもお会いしたいと思い、求めたら、このような思いもかけない救いを与えられました。イエス様の下で再び新しく神の民の一人とされたのです。 私たち日本人キリスト者は、かつては神の民ではなく、神の憐れみを知らない者でしたが、今は救われ、喜びにあふれています。私たちはザアカイと同じなのです。

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