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  • 2019年11月24日 :「わたしはアルファであり、オメガである」 坂井賢治牧師
  • 2019年11月17日 : 「神の家を治める者」   坂井賢治牧師
  • 2019年11月10日 : 「聖書に聴く」    大島庄吾神学生
  • 2019年11月3日 : 「世を救われる御子」    坂井賢治牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2019年11月
「わたしはアルファであり、オメガである」 坂井賢治牧師
聖書   エレミヤ書23:1-6
ヨハネの黙示録1:4-8
2019年11月24日   終末主日礼拝
           (収穫感謝祭)
今日は、日本基督教団が定めた収穫感謝日であり、また教会の暦では、今日が今年の最終主日で、次の主日から新しい年が始まります。その始まりがアドベントであり、12月25日がクリスマスです。
ヨハネの黙示録1:4-5に、小アジアにある7つの教会へ書き送った文書であるが、7という数字が完全数であることから、全ての教会、全てのキリスト者に宛てた文書である、と理解が出来ます。
今、ここにおられる神様は生きておられ、この神様がかつておられ、やがて来られる神様、再臨される神様であることが明らかにされています。8節では、「わたしはアルファであり、オメガである」と言っています。アルファとは、ギリシャ語のアルファベットの最初で、オメガは、最後の言葉です。わたしは最初であり、最後であり、永遠の存在であって、全能者であることを言っています。
玉座の前には、聖霊がおられ、そして、神様の証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、イエス・キリストから、と言って、神様、聖霊、そしてイエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるようにと祝福の言葉が述べられています。迫害の中にあった当時のキリスト者が、神様、聖霊と主イエスからの祝福を聞き、迫害に耐え、希望を持って生きたことでした。
すると、祝福を聞いたキリスト者がイエス・キリストをほめたたえています。
私たちも神様をほめたたえ、台風の被害を被りながらも豊かに野菜や果物を頂けることを神様に感謝しつつ、アドベントを迎え、クリスマスへ向けて準備しましょう。

「神の家を治める者」   坂井賢治牧師
聖書  出エジプト記 2:1−10
ヘブライ人への手紙 3:1−6
2019年11月17日  終末前主日礼拝
モーセは、出生の時から真に幸運で、イスラエル人の男の子が殺されている中でエジプト王女に拾われ王女の子として宮殿で育ちました。著者は、御子イエスとモーセを比較する前に、御子と預言者及び天使との比較をしていますが、いずれも御子が勝っている、と結論づけています。なぜなら神様の御子だからです。
3:1に、キリスト者は、神様の仕事に参加するために神様の召しを受けました。神様の召しを受けた者は、人間の能力や財産は問題ではありません。神様が必要の全てを満たして下さいます。「神様の召しに与っているキリスト者たち」は、「イエス・キリストのことを考えなさい」と勧めています。
「家」という言葉を用いて、御子とモーセを比較しています。家とは、イスラエルのことで、モーセは、家全体の指導を任されていました。他方、主イエスは、家を造った者でした。モーセは家の召し使いであるが、主イエスは、神様の御子であり、モーセより優れている、と言っているのです。
神の家は、新しいイスラエル共同体であるキリストの教会を意味しています。モーセは、イスラレルに忠実でしたが、イエス・キリストは、教会を忠実に治めています。だから、教会に属する私たちは、主イエスを信じ、主イエスに固く結び付いていなさい、と勧められるのです。
著者は、将来に向けて、希望と確信に満ちた誇りを持ち続けなさい、と勧め、最後まで御子イエスに希望と確信を持ち続けるならば、私たちが神の家なのです、と言っています。そこには、神様の命、神様の救いがある、ということです。

「聖書に聴く」    大島庄吾神学生
聖書  ルカによる福音書 16:19-31
2019年11月10日 終末前々主日礼拝
金持ちは生きている時、裕福で贅沢三昧に暮らしている。一方ラザロは貧しく、膿の出ている腫れ物があり、犬が腫れ物をなめていた。生きるのがやっとという状態でした。しかし二人とも死んで立場は逆転します。
ラザロはパラダイスに、金持ちは地獄、そこは火の中で苦悩の中に横たわって悶え苦しんでいます。
金持ちはせめて、自分の兄弟5人はここへ来ないように、誰かが死んだ者の中から兄弟のところへ行ってやれば、こんなところに来ることはないのだと思います。
そしてアブラハムに兄弟の所へラザロを遣わすように金持ちは言った。
しかしアブラハムは、モーセと預言書に耳を傾けないのなら、死人が生き返っても信じない、理解しない、聴こうともしないと言われました。
昨年の神学校日に奉仕した教会で、教会員からの質問があり、「教会で説教は聞いてよくわかるが、また、元の木阿弥状態になるけれど、どうしたらいいですか。」ということでした。
それは、難しい質問を神学生にしてくるなーと思いましたが。そして自分も同じで、聖書を読んで信頼して委ねて行くことしかないと思いますと答えました。今考えてみると、そう気づかせてくださる、神の恵みがその人に注がれていると思いました。なぜなら、そのことに気づかずないと神に立ち返らないからです。
聖書に聴かず、信頼していないで、教会に来た時だけ聖書を開きます。家に聖書が置いてあるだけでは、地上の人生を十分生きることができないと思うのです。
神よりも自分を中心に考えているのです。イエス様は、パリサイ人にそう、気づかせたのです。
現代社会でも、聖書を信じそれを基礎、基盤として生きる。つまり「聖書に聴く」ことが、私達を新たに創造された復活の希望の生命へと導くものです。

「世を救われる御子」    坂井賢治牧師
聖書   創世記3:1-15
ヨハネによる福音書 3:13-21
2019年11月3日  三位一体後第二十主日礼拝
       (召天者記念礼拝)
今日は、召天者記念礼拝で、先に天に帰られた多くの方々と共に礼拝をおささげしました。
私たちにとりまして、死とは愛する人たち、両親、兄弟姉妹、子、友人、知人などとの別れです。それは、実に厳しく、寂しく、また悲しいものです。死は、私たちにとって絶望かも知れませんが、聖書では、死は永遠の別れではなく、必ず再会の望みが示めされます。死んだ人間は、天に引き上げられ、永遠に神様と共にある命に生かされることになり、いずれ再び会う希望があります。
どのようにしたら神様と共にある命ー永遠の命に与ることが出来るでしょうか。
神様は、愛する独り子イエスを十字架に架けてまで、神様に逆らい、神様から離れて罪を犯す人間を赦し、救うためでした。それまでの人間は、罪を犯して、小さい存在であり、神様から遠く離れ、神様との交わりを得ることが出来ない者でした。どうにもならない人間に対して神様の方から近づいて下さって、私たちを神の子として、愛して下さったのです。
主イエスがこの世に来られ、十字架で死なれ、復活されたことによって、人間は、主イエスを信じるか、信じないか、という選択を迫られています。主イエスは、救い主である、と信じる人は、永遠の命への希望が、今,与えられるのです。
信じない者は、暗闇の中に留まり、そこから抜け出すことが出来ず、罪に落ち込み、裁かれているのです。
多くの方々の写真が飾られています。これらの方々と天国で再会することが約束されています。このことを心に止めつつ、私たちは、地上の歩みを続けて参りましょう。

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