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  • 2019年12月29日 :「いのちの価値」   森 史子 牧師
  • 2019年12月22日 : 「み子イエスに出会う道」     坂井 賢治 牧師
  • 2019年12月15日 : 「裁くのは誰か」    坂井賢治牧師
  • 2019年12月8日 : 「父がお遣わしになった者」   坂井賢治牧師
  • 2019年12月1日 : 「聖なるもの」    坂井賢治牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2019年12月
「いのちの価値」   森 史子 牧師
聖書   イザヤ書 43:4
    マルコによる福音書 8:36、37
2019年12月29日 降誕後第一主日礼拝
「わたしの目にあなたは値高く、貴く わたしはあなたを愛 し・・」預言者イザヤを通して神が語られた言葉です。
自分の価値を誰が決めているのか?人の価値を私達が、決めてしまっていない だろうか? その基準となるものは何なのだろうか?財産、経済力 を基準にすると、権威や経済力が物差しになる。そこから生まれる ものは、差別、格差、不平等、貧困だ。そこからは、良いものは生 まれない。
いじめや犯罪が起き、次々と命が失われていく。
主イエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失 ったら、何の得があろうか」(8:36)と言われた。命とは、生きるこ とであり、生きる力のことです。
そして、その命は自分で取り返せ ない。どれだけお金を持っていても、自分で買い戻す事はできない と言われる。私たちの命は、人から与えられたのではない。イザヤ 書には「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主」 と書かれている(44:2) あなたの命を買い戻すための代価は、すでに 神が支払ってくださったのですが、人々はそのことを知らないか信 じないのだ。神は続けて「あなたの身代わりとして人を与え・・」 (42:4)とイザヤを通して言われた。
あなたを生かすため、他の人が 犠牲となった。命を買い戻すため他の者の命と交換した。その方こ そ「イエス・キリスト」。その命は、永遠に続く命です。神は、ご自 分の御子をお捧げくださるほど、私を愛してくださる。 2020年は、更に互いに愛し合い、楽しみながら、永遠への希望を 持って過ごしましょう。

「み子イエスに出会う道」     坂井 賢治 牧師
聖書   詩 編 72:1〜7,マタイによる福音書  22:1〜12
2019年 12月22日  降臨節第四主日礼拝
                 (降誕祭)
クリスマスは、光と闇の対比が鮮やかに示されます。闇は、 人間が神様に逆らう思いから生まれます。人間によって暗くさ れた世界に神様の救いの光が差し込むのです。救い主の誕生が その光です。
生まれたばかりの幼子イエスに出会う道が聖書に二つ示され ています。ルカ2章では、それは、野原で羊を飼っていた羊飼い たちに告げられました。それは、天使たちの歌声を聞き、ベツレ ヘムの馬小屋を目指した羊飼いたちの道でした。
もう一つの道は、マタイ2章に記されている東の国の占星術の学者たちが辿っ た道でした。東の国で輝く星を見て、それに導かれた道でした。
知らせを受ける人が違っていれば、み子の誕生を告げる神様 の方法が違うのです。だから、野原で羊を守る羊飼いには、天 使たちの歌声を、研究室で研究する学者には、輝く星を送られ たのでした。
学者たちは旅をして、ようやくエルサレムに到着し、ヘロデ 王に会いました。その間に、星は消えていましたが、彼らが外 へ出てみると、再び、煌々と輝く星が先立って進み、ついに幼 子のいる家に一筋の光を投げかけました。東方の学者たちでさ え、人間の知恵ではどうにもならない時に、神様がお与え下さ った星に導かれ、ようやく幼子イエスの所に来ることが出来ま した。
 その家には、幼子イエスと母マリアがいました。彼らは、幼 子に会えたことを非常に、喜び、幼子を礼拝し、黄金、乳香、 没薬を贈り物としてささげました。

「裁くのは誰か」    坂井賢治牧師
聖書  マラキ書 3:19-24
コリントの信徒への手紙一 4:1-5
2019年12月15日  降臨節第三主日礼拝
パウロは、コリント一4:1-5において使徒の立場について語っています。使徒とは、神様によって教会に遣わされた指導者という意味です。彼らは、福音宣教者であり、イエス・キリストに仕える者です。自分の好みや考えで教会を支配することではありません。力を合わせて教会を育て、建て上げることが目的です。
指導者とは、神様の秘められた計画ー主イエスの誕生、十字架、復活、昇天、再臨ーの管理者である、とパウロは言います。管理者は、「忠実なこと」が求められています。それは、神様がお喜びになられるような生き方をすることです。神様に対してどうであるかが、問われているのです。誰が判断するのか。他の人間がそれを判断し、裁くのではありません。パウロは、人の裁きを恐れない、と言い、他人によってこのことが判断されるのではない、と言っています。人の良心であっても誤魔化すことが出来るのです。人の目も、自分の良心も怖くない、という生活は、神様に見られている生活、神様が全てをご存じである生活です。結局、パウロは、人を裁くのは、人ではなく、主イエスなのだと言っているのです。自分には何もやましいことがないから、といって、義とされる訳ではなく、神様を信じることによって義とされるのです。パウロは、主イエスのみが裁くお方なのだと言っています。このことは、私たちが他者を裁くのではなく、主イエスが再び、来られる時を待つ、と言うことです。
神様は、私たちの苦しみ、困難、問題や喜びなど全てをご存じであって、解決の道を示して下さり、祝福して下さいます。新しい年2020年を喜びの内に共に迎えましょう。

「父がお遣わしになった者」   坂井賢治牧師
聖書  列王記上22:6-17
ヨハネによる福音書 5:36-47
2019年12月8日  降臨節第二主日礼拝
ヨハネ5:30に、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとしている」とありますが、ユダヤ人は、主イエスの権能を受け入れようとしなかった。
主イエスは、この権能を受け入れる根拠をヨハネ5:36以下で話されました。第一は、洗礼者ヨハネが主イエスは神様から遣わされた、罪を取り除く神のみ子である、と証言しました。第二は、主イエスの業そのものが証言していることです。その業は、父なる神様が主イエスに成し遂げるようにお与えになったものだからです。第三の証言は、神様が証言して下さる、ということです。ヨハネの証言は、確かに重要ですが、神様の証言とは比べものになりません。第四は、聖書の証言です。ユダヤ人たちは、旧約聖書に「永遠の命」がある、と考えて、研究しているが、聖書は、主イエスを証ししているのです。主イエスがこの世に来られた目的は、人間の罪を赦し、永遠の命を与えるためでした。第五に、モーセの証言です。ユダヤ人たちは、モーセを信頼しましたが、モーセは、申命記18:15で,「あなたの神、主はあなたの同胞の中からわたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」と言っています。彼が証しした預言者とは、主イエスのことです。モーセが言っていることを信じないのであれば、どうして主イエスが語ることを信じることが出来るでしょうか。
今日の聖書から教えられることは、私たちが様々な主イエスを証する言葉を読み、理解して主イエスを信じるようになることです。 

「聖なるもの」    坂井賢治牧師
聖書  イザヤ書52:1−10
ローマの信徒への手紙11:13−24
2019年12月1日  降臨節第一主日礼拝
         (アドベント)
礼拝堂の様子が変り、アドベントに入りました。
ローマ11:13-24には、パウロが異邦人へ向けて伝道したことが示され、自分がユダヤ人である故に、ユダヤ人を発奮させて救いに導きたいという愛国の情を深く持っていました。またローマの11:1で、神様は、ユダヤ人を見捨てたのではない、と言っています。しかしながら、彼らは、神の選民、聖なるものであること、律法を知っていることを誇こり、神様が遣わされたみ子イエス・キリストを十字架に付ける、という罪を犯しました。その結果、異邦人に神様の救いがもたらされた、とパウロは言っています。その理由は、ユダヤ人が異邦人に救いが及んだのを見て、妬みを起こさせ、ユダヤ人が自分たちも救われなくては、と発奮することを願っているのです。
罪を犯したユダヤ人が神様に受け入れられるということは、死んだも同然の捨てられたユダヤ人が再び、神様に受け入れられることであり、死者からの命に他ならないのです。
聖なるものとは、神様に選ばれ神様の側に入れられ、救いに与かった人たちです。ユダヤ人の先祖,ことにアブラハムが聖別され、恵みを受けたので、ユダヤ人全体が聖別され、聖なるものである、と言っています。
神様に救われたことによって異邦人である私たちも聖なるものとされたのです。そのことを誇ることなく、ますます神の民として謙遜になり、私たちに連なる新たなる神の民が生まれるように努力しましょう。
そして、クリスマスへ向けて、心を一つにして準備しましょう。

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