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  • 2018年3月25日 : 「十字架の道 」森史子牧師
  • 2018年3月18日 : 「強めてくださるかた」小倉和三郎牧師
  • 2018年3月11日 : 「小さな群れよ、恐れるな」伊藤瑞男牧師
  • 2018年3月4日 : 「苦しみを受ける救い主」   坂井賢治牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2018年3月
「十字架の道 」    森 史子 牧師
聖書  イザヤ書 53:12, ヨハネによる福音書 11:45〜57
2018年 3月25日  受難節第六主日礼拝 (棕櫚主日)
「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(53)受難週 を迎える。
主イエスは、神の愛を説き、病を癒し、人々に希望を与えた。その方に対してユダヤ社会の権力者たちで構成された最高法院(最高議会)は 神を語る犯罪者に仕立て上げ殺害計画を決議した。その日から主イエスは指名手配状態となったのである。それは、主イエスが病死してしまったラザロ を生き返らせたことが原因であった。 その「神の愛の奇蹟」を目撃したユダヤ人の一部の者たちが密告したことから始まった。神を怖れることもなく自分たち の権威と利益 を守るために、神が決断された人類への愛と犠牲の救済計画を利用したのである。
何と罪深いことか!この結果、主イエスは犯罪者として十字架刑に処され死なれた。主イエスの十字架への道は、神をも怖れない人 間の傲慢さ、人 間の罪深さによって始まったのである。主イエスの苦悩は計り知れない。
しかし、神は彼らの悪意をも、人間の救いの計画に用いられたのである。主イエスの十字架は、人類を救う希望となった。 信仰によって、 神の愛と神の義の両方を得させてくださったのだ。喜び感謝しよう。

「強めてくださるかた」     小倉和三郎牧師
聖書   箴言30:7~9、フィリピの信徒への手紙
2018年3月18日   受難節第五主日礼拝
今朝ご一緒に聴く使徒パウロの手紙は、喜びの手紙として知られています。今朝聴く4:10の 「私は主において非常に喜びました」とのパウロの言葉にも、この手紙の特徴が表れています。 世間一般での喜びは自分にとって良いことがあった場合です。しかし聖書では、自分のためで なく、自分と関わりのある相手の喜びを自分も喜ぶ、共感の喜びです。喜びを分かち合うことは 単なる仲良しではなく、人間の生き方の根本に関わる重要なことです。つまり仲間や隣人と苦楽 を分かち合って生きることが、「本当に生きる」ことだからです。パウロが「主において喜ぶ」と 言うのは、キリストを信じ従う仲間である教会の喜びを表しています。
 聖書が言う喜びの今一つの特徴は、信仰の故の困難や苦しみの経験を通して味わう喜びです。パ ウロは伝道旅行の中で筆舌に尽くせない試練に会い、自分の限界と弱さを味わい尽くした時に、この 自分を強くしてくださるキリストの愛の力によって支えられている喜びを何度も経験しました。良く 知られた讃美歌484「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わ れを愛す」の賛美の通りです。キリストを信じる私たちも、共感の喜び、弱さの中にある喜びの経験 を 分かち合って歩んでいきましょう。

「小さな群れよ、恐れるな」   伊藤瑞男牧師
聖書 ダニエル書 9:17、ルカによる福音書12:22〜32
2018年3月11日  受難節第四主日礼拝
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:31,32)
イエス様は、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」、「ただ、神の国を求めなさい」と言われます。
私たちは、今日の衣食住のために働いています。さらに、明日という未来の命が保証されることを求めます。明日のことは、今日心配してもできることは限られているにもかかわらずです。そのための思い煩いがひどい場合には眠れなくなります。でも、お金さえあれば、明日の保証が与えられると思い、お金を求めるのではないでしょうか。たしかに、お金は明日の衣食を保証してくれます。しかし、それ以上を保証してはくれません。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)からです。
「神の国を求める」ことが大切です。なぜなら、神の国という共同体をつくるならば、そこで助け合うので、だれもが衣食のことを思い煩う必要がなくなるからです。それでも、共同体=群れが小さいと、心配になるかもしれません。小さい群れは力がない、と思うからです。 しかし、群れの中の人間だけ見ていたら、恐れに取りつかれます。しかし、この群れはどんなに小さくても、神の国です。神様が御子イエス様をそこに遣わし、私たちと共にいてくださいます。恐れることはないのです。

「苦しみを受ける救い主」   坂井賢治牧師
聖書 詩編 31:8−12, マルコによる福音書 8:27−33
2018年3月4日  受難節第三主日礼拝
主イエスの質問に対して、世の人々は、神の子、救い主とは考えず、洗礼者ヨハネなど、人間と捉えました。ペトロは、「あなたは、メシアです」と信仰告白しました。 主イエスは、私たちにも、「わたしのことを何者だと言うのか」と問われます。信仰弱く、苦しみや困難に直面した時、果たしてペトロのように正しく答えることが出来るでしょうか。私たちは、聖書を通し、説教を通してイエス・キリストの十字架と復活、永遠の命の希望を信じて、洗礼を受けた者です。それ故、どんな時でも、「主イエスは、救い主です」と告白するのです。
神のみ子主イエスは、罪を犯さなかったにも拘わらず、人間の罪を背負って十字架にお架かりになられ、苦しみを受け、死んで、復活し、悪と死に勝利されました。そのことを弟子たちにはっきりと教えるために受難予告をされたのです。しかし、信仰告白したはずのペトロは、理解が出来ず、主イエスをいさめる、という罪を犯したのです。
救い主が十字架上の苦しみを受け、多くの人たちのために御自分の命をささげ、人間の罪を赦し、救って下さり、神様の愛をお示しになられました。だから、私たちは神様によって永遠に至るまで平安に生かされるのです。

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