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  • 2018年4月29日 : 「勝利の神」 森 史子牧師
  • 2018年4月22日 : 「神は愛です」 坂井賢治牧師
  • 2018年4月15日 : 「わたしは良い羊飼い」 坂井賢治牧師
  • 2018年4月8日 : 「日々に新たにされる」 坂井賢治牧師
  • 2018年4月1日 : 「主イエス、復活する」 坂井賢治牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2018年4月
「勝利の神」    森 史子牧師
聖書  ヨハネによる福音書16:25〜33
2018年4月29日  復活後第四主日礼拝 (うたえ)
  「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」26節
主イエスと弟子たちの最後の晩餐での貴重な時間の最後に語られた言葉です。
主イエスは、弟子たちと離れる直前まで愛の限りを尽くして彼等を励ましています。ご自分が離れても、父に直接祈ることができる道を約束してくださいました。主イエスを信じる者には、今に至るまでこの約束は生きています。直接自らの言葉で祈れる恵みは、まさに万人祭司の言葉通りです。「イエス・キリストの御名によって祈ります」この言葉は、私たちの祈りを主イエスが、推薦していますと言う大変高価で重い言葉なのです。この恵みが今も与えられ続けているのは、主イエスの十字架と復活の事実があるからです。死の力を破り、勝利されたからです。主イエスを救い主と信じる信仰を持てたら、この世でのどんな苦難をも耐え、平和を得ることができるのです。
「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」感謝と喜びを持って「主イエスの御名によって」ますます祈っていきましょう。

「神は愛です」      坂井賢治牧師
聖書 詩編34:2-8,ヨハネの手紙一 4:11-21
2018年4月22日 復活後第三主日礼拝 (よろこべ)
愛は、神様から出るものであり、それは、愛の源が神様にある、ということです。なぜなら、神様は愛だからです。神様の愛を完全な仕方で明らかにしたのは、み子イエス・キリストをこの世に遣わしたことです。それは、完全で、そして犠牲をいとわない愛です。神様の独り子を十字架の上で犠牲とされたことで示された愛です。神様の愛は、人間の罪にも拘わらず、その人間の罪を赦し、救い、神様にある新しい命を与え、神の子として下さったことに表れています。
命とは、み子イエスが神様から受けた命であり、それを信ずる者にお与えになった永遠の命です。
更に、大切なことが記されています。神様が私たちの内に留まる、ということです。このことが起こるのは、私たちが互いに愛し合っている時です。その時、神様は、私たちの神様に対する愛を完成し働くものとなして下さるのです、 神様が私たちの内に留まり、また私たちも神様の中に留まることを知るのは、神様が与えて下さった聖霊によってです。聖霊が私たちの内にあって、直接、必要なことを示して下さるのです。このことを私たちが理解するためには、先ず、「イエスは救い主である」と信仰告白することです。第二に、兄弟愛を実行することです。
私たちは、そのように神様の愛を頂いているのですから、兄弟や隣人を愛し、愛の業に励みたい、と願っています。

「わたしは良い羊飼い」    坂井賢治牧師
エゼキエル書34:7〜15, ヨハネによる福音書10:7〜18
2018年4月15日  復活後第二主日礼拝 (主のあわれみ)
主イエスは、御自分を良い羊飼いにたとえて、「わたしは羊の門である」と言われ、主イエスを通って中に入る者は救われる、と語ります。主イエスが先頭に立って、羊を導かれ、門を出入りして、牧草を見つける、と言われる如くに、キリスト者を守り、導き、神の国へと導かれるのです。
また主イエスは、自ら、「わたしは良い羊飼いである」と言われ、良い羊飼いは、羊が死の危険に直面した時には、羊の命を守るために自分の命さえも惜しまず、羊の命を守るのです。良い羊飼い、主イエスは、キリスト者を守るため、また彼らに命を与えるために自らの命を十字架上で犠牲にされたのです。
主イエスは、「わたしは命を捨てる」と言われ、神様のみ子の自由な決断を語られます。主イエスの犠牲と人間に対する思いによって、父なる神様の愛を得ることが出来、父なる神様は、み子イエスをお見捨てにならず、再び、命をお与えになられたのです。
星野富弘さんやマザーテレサは、様々な困難や苦しみの中にあっても、神様の支え、守りそして導きがあって、それらを乗り越えることが出来ました。彼らのみならず、主イエスは、苦しみ、悩み、病み、弱く、不安を抱え、希望を失っている者全てに近づき、名前を呼び、良き羊飼いとして、その人たちを守り、導き、神の国へと招いて下さるのです。その中の一人は、私たちである、と考え、日々の生活を希望を持って歩んで行きましょう。

「日々に新たにされる」   坂井賢治牧師
聖書 詩編145:1-13, コリントの信徒への手紙U4:7-18
2018年4月8日  復活後第一主日礼拝 (新生)
パウロは、落胆しません。なぜなら、神様の憐れみを受けたからである、と言っています。憐れみの内容は、パウロに使徒の務めを委ねて下さった神様の愛です。しかもパウロは、自らを弱い、脆い土の器にたとえ、その中に神様の栄光を納めているので、艱難をも乗り越えることが出来た、と語ります。
外なる人とは、目に見えるものに生きる人、肉体と結び付いて死への存在です。内なる人とは、主イエスが私たちの内に生きておられ、信仰に生きる人、主イエスに似る者へと聖化される人です。外なる人は、単に肉体という意味ではなく、肉体をも含めて、外部から見たパウロであり、様々な困難や苦しみで、衰えるように見えます。しかし、内なる人、即ち主イエスによって霊的な誕生をした人は、日々に新しくされ、成長するのです。それは、自己更新ではなく、自分における神様の創造的なみ業が、私たちの存在を日々、新しくして下さる、ということです。主イエスによって、新しくされ、日毎に、清くされることです。これが聖化されることであり、主イエスに結ばれた人は、新しく造られた新しい人となるのです。
私たちは、今、余りにも現実的になってはいないでしょうか。自分の身の回りのことにのみ心を遣っていないでしょうか。永遠を待ち望む心を失っていないでしょうか。私たちは、イエス・キリストを信じて、内なる人が日々新たにされることを望みつつ生きて行きましょう。

「主イエス、復活する」 坂井賢治牧師
聖書 イザヤ書 42:10-16, ヨハネによる福音書 20:1-10
2018年4月1日  復活祭礼拝
先週、私たちは、主イエスの十字架上の死とお苦しみを覚えて過ごしました。しかし、神様の偉大なみ力によって、主イエスは復活なさいました。それ故、十字架は、神様の赦しと愛の源となったのです。
昔から主イエスの復活を信じられない、という人たちが多くいましたが、それは科学的証明が難しいからである、と言われます。主イエスの復活は、聖書に書かれていることによってしか証明されません。即ち信仰によって信ずることなのです。
復活の根拠の第一は、空虚な墓の物語であり、主イエスが葬られた墓に遺体がなく、空虚であった、ということです。第二の根拠は、主イエスが弟子たちへ顕現したことによります。
復活とは、神の子とされること、体が贖われることであり、完全に罪から解放されることを意味します。
ヨハネによる福音書20章1節以下で、マグダラのマリアが、主を埋葬した墓へ行き、墓の入口に置いてあった大きな石が取り除かれていることに驚きました。それ故、主の遺体がないと思い、ぺトロともう一人の弟子に伝えました。彼らが来て、墓の中を確認し、遺体が無いことを発見しました。 11節以下で、マリアが復活の主イエスに呼び掛けられ、主イエスの顕現に遭遇し、主イエスの復活を確かなものと信じました。
主イエスを信じる私たちは、これからの人生の歩みを神様に守られ、導かれ、永遠の命の希望を抱いて、困難や苦労を乗り越え、復活の主イエス・キリストのおられる神の国への期待と喜びを持って生きて行くことが出来るのです。

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