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  • 2018年7月29日 : 「この家に平和があるように」    森 史子 牧師
  • 2018年7月22日 : 「すべての人に仕える者」    坂井賢治牧師
  • 2018年7月15日 : 「今は、恵みの時」    坂井賢治牧師
  • 2018年7月8日 : 「何か見えるか」   坂井賢治牧師
  • 2018年7月1日 : 「キリスト・イエスに結ばれて」  坂井賢治牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2018年7月
「この家に平和があるように」    森 史子 牧師
聖書  詩編 126:5?6 ,  ルカによる福音書 10:1〜12
2018年7月29日  三位一体後第九主日礼拝
「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」主イエスは、12 弟子のほか72人をご自分が行くつもりの町や村に派遣されました。 その理由は9:51「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向 かう決意を固められた」からでした。
ガリラヤからエルサレムへの旅が始まりました。主は弟子たちに、 まず訪れた家を祝福するように命じています。『シャローム=この家 に平和があるように』この祝福の言葉が、家族の中の一人にでも留 まるように願いつつ。そして、その町の病人を癒し、「神の国はあな たがたに近づいた」と言うように命じています。
神の救いの恵みを宣べ伝えるために派遣された弟子たちの姿は、 私たち教会の姿でもあります。私たちが訪問する家庭が、地域が 「神の御子イエス・キリストが来られる」「神の救いが実現する」、 この聖書の言葉と真理を信じ受け入れたなら、この世界に平和が実 現することでしょう。しかし、残念ながら「狼の群れの中にいる子 羊」の様に、困難や迫害に遭うこともあります。
だががっかりする事はありません。その時こそ、十字架の苦しみ を経て復活された、主イエス・キリストの最も近くに居られるので す。神を信じ、聖霊の助けを求めながら、派遣されている家を祝福 しに共に出て行きましょう。

「すべての人に仕える者」    坂井賢治牧師
聖書 民数記11:24-29, マルコによる福音書9:33-37
2018年7月22日  三位一体後第八主日礼拝
カファルナウムに到着すると、主イエスは、途中で何を議論していたのか、とお尋ねになりました。弟子たちは、誰が一番偉いか、と議論し合っていたのでした。
主イエスは、居ずまいを正され、彼らに、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と言われました。世俗的な地位や栄誉を求めるのではなく、人に仕える者になるように主イエスは、教えられたのです。
主イエスのこのお言葉の背後には、すべての人に仕え、すべての人のために十字架に架かられようとしている御自身の生き方があったことを考えずにはおれません。 主イエスの勧めは、一般的な考えとは全く逆のものであるが、これが人間の真実な姿なのです。偉い人ほど仕える者となり、上に立つ者が人々の僕になる時、人間関係は平和で、限りなく真実なものとなるのです。
主イエスは、一人の子どもを抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。
主イエスは、仕える者となるだけではなく、更に、子どもを受け入れる程に徹底して自分を低くする必要を教えられたのでした。
私たちは、心から自分を低くして、十字架の主イエスに従って行くのです。
子どもたちを受け入れる人は、主イエスを受け入れるのであり、神様を受け入れるのです

「今は、恵みの時」    坂井賢治牧師
聖書 詩編18:26-35, コリントの信徒への手紙二6:1-10
2018年7月15日  三位一体後第七主日礼拝
恵みは、神様あるいは人から受ける好意、情け、親切のことであり、神様から与えられる恵みは旧新約聖書の最も重要なテーマです。
「神からいただいた恵み」とありますが、これは、神様との和解の恵みです。人間が神様に対して罪を犯しているにも拘わらず、主イエスにおいて神様の方から和解をして下さったのです。主イエスの十字架は、神様から和解を求めたものであり、これによって人間の罪は、赦され、正しいとされ、救われたのです。これこそが神様の恵みに他なりません。
「神の協力者」とは、神様と対等に働くという意味ではなく、神様の憐れみ、恵みと力とを受けて、神様のみ業に参与させて頂いている者です。
「恵みの時」とは、神様のみ旨に適った時です。それは、主イエスが十字架に付けられ、復活された後、再臨される時までの間のことである、と考えられます。それは、私たちが救われる時、また神様との和解を告げる時です。
「神に仕える者」は、自分たちのために死んで復活して下さった主イエスのために生きる者です。
「神に仕える者」であり続けるためには、パウロは、大いなる忍耐を持って、様々な苦難を耐えることが出来たのは、神様が与えて下さった聖なる賜物の故でした。 今日、示されましたように、パウロに倣い、今が恵みの時であることに感謝し、主イエスを信頼し、導かれ、喜んで生きて行きましょう。

「何か見えるか」   坂井賢治牧師
聖書 詩編119:129-136,マルコによる福音書8:22-26
2018年7月8日 三位一体後第六主日礼拝
主イエス一行がベトサイダに到着すると、人々が一人の目の見えない人を連れて来て、主イエスに触れて頂きたい、と願いました。ここには、病人の意志は、全く語られていませんが、周囲の人々の善意、愛の行いが鮮やかに示され、病人に対する愛があり、また主イエスに触れて頂ければ、良くなる、という人々の信仰がにじみ出ています。
主イエスは、病人に対して、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれて、「何か見えるか」とお尋ねになりました。その人は、「人が見えます」と答えた。更に、主イエスは、もう一度、両手をその目に当てられると良く見えてきて、病人は、いやされ、何でもはっきり見えるようになりました。
主イエスの弟子たちは、目があっても見えず、主イエスのことは、何も分かっていなかったのです。最初は、何も見えず、分かりませんでしたが、主イエスが繰り返し話されるみ言葉によって彼らの目が開かれ、徐々に理解出来るようになることを暗示しています。
私たちにも同じことが言えます。初めは、何も分からないキリスト教ですが、徐々に理解が深まるのです。主イエスは、人間のために十字架の上で死なれ、人間の罪を赦し、救って下さったのです。
信仰を与えられた私たちは、聖書の言葉によって、私たちの住む世界を、また私たちの生活を変えることが出来るのです。そのために努力をしたいものです。

「キリスト・イエスに結ばれて」  坂井賢治牧師
聖書 エレミヤ書23:23-32
ガラテヤの信徒への手紙5:2-11
2018年7月1日  三位一体後第五主日礼拝
パウロは、ガラテヤの人々に福音を説き、律法によって義とされるのではないことを強調しました。
リスト・イエス、即ち救い主イエスに結ばれているならば、割礼の有無、律法を行うか否かは、問題ではなく、信仰が全てであり、その信仰が愛において現実となるのです。ただ信仰によって、義とされ、神の国に入る約束が与えられるのです。
エレミヤ書23章23節で、神様は、地上の人間の近くにいる神なのか、あるいは遠くにいる神なのか、と言われました。神様は、人間の近くにおられ、同時に、天にあって世界の全てをご覧になり、すべてを支配しておられるお方であります。ですから神様から隠れようとしても、必ず、見つけ出されるのです。偽預言者は、自分の思いや自分の愛を語るのに勝手に「神の名」を使って、民を迷わせているのです。
現代にあっても、サタンは、まことしやかに主イエスの名を用いて、巧みに私たちに迫って来るのです。その誘いに乗らないためには、祈りを熱心にし、真理を見分ける聖霊の導きを切に求めなければなりません。
私たちは、神様の言葉を正しく聞き、理解し、実行し、熱心に祈り、キリスト・イエスに結ばれて、
しっかりと信仰を保ち、信仰から生まれる愛の業に努めましょう。

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