更新

  • 2017年4月30日 : 「必要なことはただ一つだけである」森史子牧師
  • 2017年4月16日 : 「死は勝利にのみ込まれた」伊藤瑞男牧師
  • 2017年4月2日 : 「ののしった」森田進牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2017年4月
先週の説教から「必要なことはただ一つだけである」森史子牧師
聖書  ルカによる福音書 10:38〜42
2017年4月30日 復活後第二主日礼拝
「必要なことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ。」マリアが選んだのは、 主イエスの話を聞くことでした。主イエスの言葉は、何よりも優先されるべきものであることを改めて確認させられる言葉です。 予定におわれ多忙な毎日を過ごしていると、時間をも自己中心に使ってしまいがちです。 神中心の人生をおくるためには、日々の生活に主イエスを招いて御言葉を聞かせて頂くことが、なによりも必要であるのです。私たちは、その特権をもっているのですから、感謝 して用いていきたいと願います。
また、私たちには、教会に集い日曜日には礼拝を献げ、平日も聖書を学べて賛美を 楽しむ時も与えられています。恵みと喜びの時間です。その陰には牧師と教会員の方々の 奉仕の力が大きな助けになっています。ご奉仕に感謝して、恵みを分かち合いながら更に 一致してキリストの体である教会を建て上げていきましょう。そして、教会を通して地域の方々が主イエスと出会えますように信じ期待して祈っていきましょう。

先週の説教から「死は勝利にのみ込まれた」伊藤瑞男牧師
聖書  詩編 90:1〜17,コリントの信徒への手紙1 15:42〜58
2017年4月16日 復活祭(イースター)礼拝
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれていることが実現するのです。 『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」」コリントT15:54〜55 死は今まで、すべての人を例外なくその支配と絶望に呑みこんできました。 しかし、今や、イエス・キリストが十字架の死から甦られたことによって、事態が一変しました。すなわち、神さまは死に支配されず、 死に勝利されることは旧約の信仰者たちも信じていましたが、人となられた御子イエスが復活されたことによって、人も甦ることができることが示されました。 人が復活を与えられるのは終末においてですが、イエス様を信じる者の目には、死者が朽ちない霊の体を身に着けて一斉に甦る姿を垣間見ることが許されるのです。 その意味で信仰者は今復活の確かな希望に生きることが許されています。
私たちも、「死よ、お前の勝利はどこにある」、と勝利宣言をすることができるのです。 死が敗北するのはどのようにしてでしょうか。それは、死の武器である「とげ」=罪が十字架によって取り除かれることによってです。 罪は死を恐ろしくさせ、畏れによる死の支配を強化します。同時に、律法が罪を増大強化します。なぜなら、死とサタンは、律法を守らなければ、 神の罰が与えられること、守ってもよい行いの底に罪の心が潜むことを絶えず人に知らせ、絶望に導くからです。
しかし、主イエスの十字架の贖いにより、罪が消え、律法による救いではなく、神の愛による救いを完成されたからです。 死と罪の完全な勝利が、逆転して、死の完全な敗北に変えられました。 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。」(57節)

先週の説教から「ののしった」森田進牧師
聖書 マルコ 15:24〜32
2017年4月2日 受難節第五主日礼拝
私どもは、イエスさまの刑死のゴルゴダの場面に慣れ過ぎてしまって、じっと見つめる訓練を放り出していませんか。15:16、「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた」。おそらく両手を縛り、引き摺りながらです。17節、「「紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ」。「紫の服」は、王が纏う色です・18節、「『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた」。これは、「ローマ皇帝、万歳」を意味する侮蔑です。罪状書きは、政治犯としての死刑囚の意味なのです。下級兵士としてあしらわれている彼らの鬱憤が爆発している。そして十字架につけるために外へ引き出され、横木を担がされた。
ついに十字架に架けられ、「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが」。イエスさまはお飲みにならなかったのです。没薬はイエスさまが誕生の場面のお祝いの一つであったのですが、じつは死の予兆でもあったのです。そして、兵士たち、通りかかった人々、ユダヤ社会の支配階層、さらに死刑囚たちもが、そろってイエスさまを侮辱してののしったのです。この人間たちのむき出しな底の浅さ、ここであらためて見せつけられたのです。
今日の個所に続く33~34節、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは、大声で叫ばれた」。絶望の極みで叫ばれた。イエスさまのこの絶望の死があって、初めて私どもの絶望が越えられたのです。 そして、福音書は一気に復活の場面へとジャンプする。この一点で私どもの希望が立ち上がる。
私ども弟子たちは、ほとんど皆、刑死の現場から逃げ出してしまった。しかし、今日、イエスさまから和解の福音へと招かれている。これこそが与えてくださった赦しと恵みなのです。この事実を胸にして、受難日を迎えましょう。

5月の説教 3月の説教 トップへ

© 日本キリスト教団 大泉ベテル教会.All Rights Reserved.