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  • 2017年7月30日 : 「神の家」森史子牧師
  • 2017年7月23日 : 「地の塩の意味」坂口順治氏
  • 2017年7月9日 : 「キリストの思い」小倉和三郎牧師
  • 2017年7月2日 : 「真の謙遜」伊藤瑞男牧師
礼拝堂 埼玉県新座市栄4-6-17



これまでの説教要旨 2017年7月
「神の家」森史子牧師
聖書  ヘブライの信徒への手紙 3:1〜6
2017年7月30日  三位一体後第七主日礼拝
米国のキリスト教徒迫害監視団体の報告(2017年度)で、 キリスト教徒12人に1人が迫害に直面していること、上位21カ 国ではほぼ全員が激しい迫害を受けており、その数は2億1500 万人余りに上ると発表された。
ヘブライのクリスチャンへの手紙には、迫害の中で生活する彼 らが苦しみの中でも信仰と希望を失わないように、イエス・キリス トによる神の恵みを記した励ましの言葉が溢れている。 私たちが、迫害のない日本でクリスチャンとして生きることは、 恵みであり感謝なことです。 「イエスのことを考えなさい」(3:1)
しかし、神は私たちに計画と期待を持って信仰を与えてください ました。私たちが、自分たちの置かれたところで、イエスを思い、 イエスに祈り、イエスと交わり、イエスの与えてくださった希望に 生きることは、現在も迫害の中で生きる多くの方々の励ましになる と信じます。
もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たち こそ神の家なのです。」 一人一人が、神と人が共にいるところ=神 の家になることをビジョンに握って共に歩み続けたいと願います。

「地の塩の意味」坂口順治氏
聖書  マタイによる福音書 5:13−16, コロサイの信徒への手紙 4:6
2017年7月23日   三位一体後第六主日礼拝
マタイ福音書の「地の塩、世の光」はイエスの山上の説教で有 名な箇所である。イエスは、塩のはたらきをしなさいと説いている。 また、パウロはコロサイの信徒に塩で味付けされた快い言葉で隣人 に付き合いなさいと勧めている。これらはキリストの慈しみ、神の 愛を日常生活の中で行うことが大切であり、地の塩のはたらきは、 我々が神の愛の触媒作用を担っていることを示している。愛の触媒 作用は人がつながり、出逢い、そして現れる。愛は時間や機能や形 状に関係なく、人々の魂に変化をもたらす。<>br 愛のはたらきを二つの事例で確かめる。滝廉太郎作曲の「荒城 の月」はベルギーの修道院でケルビム賛歌になっている。この曲に 修道院長が魂の感動を感じたからである。廉太郎は元田牧師から受 洗した。元田氏はティングさんから、ティングさんは父親に繋がっ て神の愛を伝えている。このかかわり、出逢い、連綿とつながる触 媒作用は恵みと喜びの神の愛を伝えている。
次はAさん。現在活躍中の牧師教授の話。幼少時に生みの母親と 死別、父は再婚。荒れ狂った生活の思春期を過ごす。家出して独立 独歩の生活をした。あるとき生命の危険に遭遇したことで変身し、 その後、 勉強に励み、良い教師と出逢い、牧師の道を選ぶ。50歳を過ぎた頃、 生みの母親は基督者だったとわかり、手記にAを神に委ねると書き残 していた。 この不思議な関係、眼に見えないつながりと出逢いは、 恵みの本質である。 地の塩の意味は深い。

「キリストの思い」小倉和三郎牧師
聖書  詩編 146:1〜10, フィリピの信徒への手紙  2:1〜11
2017年7月9日  三位一体後第四主日礼拝
キリストを信じる者の生き方は、キリストの愛に励まされて、隣 人を愛し慈しみ、悩む人を憐れみ助けることにあると私たちは知っ ています。しかし、これらのことを実際に行っているかどうかは別 のことです。使徒パウロはフィリピ教会の信者たちに「あなたがた に、隣人を愛し憐れむ心がいくらかでもあるなら」(2節)、と語り かけています。この問いかけは、私たち一人ひとりに向けられてい る厳しい問いかけです。主なる神は私たちがキリストの愛と憐れみ の実行を怠ることの多いことを見抜いておられます。
キリストはこの私たちの現実を知っておられる故にこそ、私たち を礼拝に招いてくださいます。そして主は、溢れる愛を注ぎ、私た ちの不従順と怠慢を赦し、聖霊を注いで、御言葉を行う力を与えて くださいます。
パウロはさらに、何事も利己心や虚栄心から行うことを戒め、隣 人を自分より優れたもの(より神に愛されている者)として重んじ ることを命じています。この「キリストの思い」を実行するために、 神の子の栄光を脱ぎ捨てて身を低くし、貧しい人間となられたキリ ストの道を辿るよう、私たちに命じています。

「真の謙遜」伊藤瑞男牧師
聖書  レビ記19:13〜18、 フィリピの信徒への手紙 2:1〜11
2017年7月2日   三位一体後第三主日礼拝
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を身分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」 この言葉は、私たちが教会において、また日常の生活において隣人にどう接するべきかを教えて います。「へりくだって、相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と言います。
この世では、人と人の間に上下、優劣があると考えられています。 お金、財産、身分、地位、名声、能力は勿論、道徳的高潔さなどにおいて、私たちはそのことを意識しないで、他人と接することができません。 相対する人が自分より優れていると思えば、自分が卑屈になり、反対に 自分より劣っていると思えば、優越的な態度になるでしょう。それではよくないと、だれも考えます。
しかし、パウロのこの言葉は、この世の知恵と同じではないでしょうか。そうです。日本でも、謙遜は美徳と認められ、へりくだる人は称賛されます。 この世の謙遜は礼儀に属しますから、形だけになりやすいことは、多くの人は気がついています。 それでも、パウロはこの世の知恵をないがしろにしません。 ただし、パウロは、眞の謙遜を主イエス・キリストに見ています。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって身分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
私たちは、この主イエス・キリストの謙遜の姿を見て、悔い改めるのです。そうして、私たちの謙遜も真の謙遜に近づくのです。

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