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「仕える者になりなさい」 五十嵐 敏子(大泉ベテル教会員)
聖書 マルコによる福音書 10:35〜45
2020年3月29日 受難節第五主日礼拝
ヤコブとヨハネの願いと題がつき、参考箇所のマタイ20:20〜28ではヤコブとヨハネの母の願いとなっています。
マタイのほうが解りやすく、我が子に偉い人になってほしい、楽で安全な人生を進んでほしいなど少々ほほえましい願いです。
マルコでは私が〜と言う思いで、人の上に立つ人になりたい、権力を持ちたい、思いのままに動かしたいなどです。
しかしイエス様は言いました。「異邦人の間では支配者と見られている人が人を支配し、偉いと見られている人が権力をふるっている。
でもあなた方のあいだではそうではない。」
イエス様はこの世の価値観の出世や権力財力を求めることを、全面的に否定してます。
偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は全ての人の僕となりなさいと言われました。
弟子たちの期待はみごとに退かれました。
さらにイエス様は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たと言われました。
私が子育ての中で、小学校のPTAで副会長をして次の会長を決めるにあたり、普通は引き受ければすんなり決まるものをどうしても引き受けられませんでした。
当時の息子はいろいろ問題があり、父母からの苦情が多くありました。でも親としては知りたいことで、あやまって説明して少しづつ理解してもらうには皆さんの苦情は大事なことでした。
会長になることで変に偉くなったように思われて、低学年の父母が言いづらくなり私に息子の本当が見えなくなることが辛いことでした。
学年の父母みなさんに集まってもらい、説明してみなさんの一致で別の適任者に決まりました。
私は全面的に陰の協力を約束しました。そんな事が2回ありました。
それぞれの働きやすい位置があると実感します。
イエス様の命を犠牲にして代償にいただいた救いを忘れないで、私は大好きなべテル教会と大泉学園のために小さな働きをしていきたいと願ってます。
「神から愛された女性・レア」 森 史子牧師
聖書 創世記 29:31~35
2020年3月22日 受難節第四主日礼拝
「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」(31)
レアの結婚は、父親ラバンの策略でした。夫ヤコブは、レアの妹ラケルとの結婚を切望していました。
レアは、自分ではなく妹を愛している男性と結婚したのです。ラバンに騙されたヤコブは、抗議して、その1週間後にラケルとも結婚しました。
「ヤコブはレアよりもラケルを愛した。」(30) レアは、結婚当初から夫に愛されていない妻でした。
その悲惨な生活を考えると、心身を病んでもおかしくなかったでしょう。主がレアを見守っておられた事がわかります。
レアは自分の容貌のことや、結婚生活のことについて、神にも人にも不平や苦情を言ったとは、どこにも書かれていません。
それどころか夫を受け入れ、夫の愛を諦めず求めていました。真実で誠実な妻でした。それでも冷たい仕打ちに耐えているレアを、主は深く憐れみ、祝福して子供を与えられたのです。レアの主に対する感謝の気持ちと信頼は、ますます強められます。
妊娠、出産の喜びと子供達の存在は、レアにとって大きな慰めになりました。主はレアに、6人の息子と1人の娘を与えました。ラケルは、その間も不妊のままなので、姉レアを妬んで女奴隷を通して男児2人与えられましたが、レアの女奴隷も同様に2人の男児を産みました。
その後、ようやくラケルの願いも聴き届けられ男児2人を出産しました。ヤコブの息子は12人になり、イスラエルの12部族の先祖となりました。その半分は、レアが産んだのです。自分が悪いのではないことで不幸な結婚をして、女性としても屈辱的な人生を歩んだレアでしたが、神は多くの祝福を彼女に与え続けました。
今でも、苦しみを通った女性たちには特に、レアの存在は大きな励ましになっています。
「主に従う恵みの道 」 明星 晃 牧師
聖書 列王記上3:11-12
ルカによる福音書 9:57-62
2020年3月15日 受難節第三主日礼拝
ルカ福音書の聖書本文の小見出しは「弟子の覚悟」です。主イエスの弟子に求められる資質、態度と理解できる言葉です。たしかに主イエスは「弟子は…十分に修行を積めば、その師のようになれる」(ルカ6:40)と仰言っています。ところが、最も身近で信頼されていた弟子たちは、ゲッセマネの園で主イエスが血のような汗を流して祈っている時に、3回も注意されながら眠ってしまいました。
さらに、ペトロは主を「知らない」とシラを切り、ユダは金貨30枚で主を裏切り売り渡しました。他の弟子たちも権力者に捕らわれた主を見捨てて散りじりバラバラに逃げ隠れてしまいました。なんとも「覚悟」が定まらない修行の未熟さ弱さを露呈しています。
「イエスは、天に挙げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と記されています。ご自分の神の子としての働きが迫ったと緊張し、揺るぎない心を持たれました。その道行に、マタイ福音書によると「ある律法学者が近づいて」、「どこへでも従って参ります」と言いました。主イエスは、ご自分の十字架への苦難の道行を空の鳥と地の狐に比した喩えで表現しました。聖書はこの律法学者がゴルゴタの刑場まで従ったとは記していません。住む家もない人々と共に過ごしていた主イエスを「罪びとと飲食している」と非難した律法学者には、想定外のお言葉だったでしょう。
また「まず、父を葬りに」と言った別の人には、「死んでいる人たちに葬らせなさい。あなたは神の国を言い広めなさい」と仰言いました。「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:10)という主の宣教の始めを示唆しています。
また「まず家族にいとまごい」をと言った別の人には「鋤に手をかけてから後ろを見るな」と仰言いました。「神に従う人は信仰によって生きる」という預言者の言葉を想い起します(ハバ2:4)。
受難節のこの時期、3月は私たちにとってもつらい苦しい、悲しいことの多い季節でもあります。10日は東京大空襲の日でした。一夜にして下町が広範囲に焼き尽くされ、10万人を超える人が亡くなりました。私はこの空襲の火の下を逃げまどい、奇跡的に生き延びた者の一人です。この夜は3歳11か月の私を含めた5人家族はかろうじて全員無事でしたが、この日に先立つ1月に、2歳になったばかりの妹がヘルニアの手術中に空襲の停電で亡くなりました。11日は9年前の東日本大震災の日でした。 空の鳥や地の狐、その他の動植物は神の創造の秩序に忠実に従って生きています。しかし、人間は創造の秩序に従わない生き方をする者が大勢存在しています。
「リベカ・神の導きの女性」 森 史子牧師
聖書 創世記25:19~26
2020年 3月8日 受難節第二主日礼拝
「わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。」24:48 リベカに出会ったアブラハムの僕の言葉です。
140歳になったアブラハムは、神との約束である子孫への祝福と信仰の継承を願い、僕にイサクの結婚相手を、自分の一族の中から探すよう命じた。そして、
神の導きによりリベカをイサクの妻として迎え、唯一の神を崇める純粋な信仰を子孫に残すことができた。その後、アブラハムは全財産をイサクに譲り、175歳まで生きて長寿を全うした。
リベカとイサクは、互いに愛し合い、神に祝福された人生を歩んでいた。しかし、20年経っても子供が生まれなかった。
「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために祈った」25:21
神は祈りに応えて、双子の男子(エサウとヤコブ)を与えたが、神は「兄が弟に使えるようになる」と預言した。やがて、神の計画は成就するのだが、リベカは神の時を待てなかった。弟息子ヤコブに対する偏った愛は、夫を裏切り、エサウの祝福をヤコブのものにさせた。そして、家族は分裂して壊れ、子供達も争いの中で生きることになってしまった。
神の導きの女性だったリベカが、神の主権を忘れてしまったのだ。その結果、夫を裏切り、息子は憎み合い、自分も孤独に生きることになってしまった。
(神が与えてくれた人生を感謝して歩む)リベカを通して教えられた。感謝。
「福音の使者」 − 基督者として生きる術
坂口 順治氏(大泉ベテル教会客員)
聖書 テサロニケの信徒への手紙T 5:1〜8
2020年3月1日 受難節第一主日礼拝
いずみ寮の六十年史の原稿を依頼されて、寮の建設にかかわったボランティア学生のワークキャンプのことを調べた。早稲田奉仕園の学生達で、参加した人たちの中には旧約学を専攻した「バッハの森」の石田さん、北海道で児童福祉事業を起こした安達さんらがいる。そのなかのひとり、奉仕園の活動を支えた理事長、山本忠興氏の生きざまについてお話したい。
氏は1903年富士見町教会で、植村正久牧師により 受洗、早稲田大学理学部の創設にかかわり、電気工学部教授として、井深大を育て、受洗への導きをし、戦中に盛田昭夫と会わせて後の「ソニー」を創立する機会を与えている。また、戦前・戦中・戦後を通して国の第一線で活躍した純粋な基督者でもあった。早稲田大学では、体育会の総監督、IOC(オリンピック)委員、政府の各委員、教会の長老など大活躍をした。中でも、戦時の教会の合同には現在の日本基督教団の組織化に貢献をし、1940年(皇紀2600年)には神武天皇を祭祀とする橿原神宮へ宗教界の代表に加わって参拝している。戦後は国際基督教大学(ICU)の設立に貢献している。多くの基督者は戦中、特高に監視され惨めな生活を強いられた。戦後になると基督者の戦争責任を問われたものだった。
そんな中、山本氏は戦中、奉仕園の土地を早稲田大学に売却し理学部東亜石油学科を創設という実績を残し、戦後に元の持ち主のバプテスト教会が買い戻すという、驚くような離れ業をした。数年で敗戦することを予測し、軍部に没収されてしまうことを避けたのである。
山本氏はどんな信仰的思想と信条で価値矛盾の時代を生き抜かれたのか。論文や随筆などを調べたが真実はつかめなかった。が、大東亜共栄圏構想の理想、協働体づくりの基本には基督教の相互共愛が必要だと言っている。個人としては生涯を貫く秘められた信仰の情熱があった。自己矛盾、相互矛盾を超越する「贖罪愛」を信条としていたようだ。私なりに言えば、神の愛を受けた信仰者の応答としての社会実践を臨機応変にされた人だと思う。
パウロは「主は私たちのために死なれた。それをどんなに解釈しても、ともに生きておられることなのだ。だからお互いに愛し合い、向上していく日々を送りたい」と言っている。今日からレントに入る。克己の季節である。
イエスの十字架の死と復活への道筋を味わいながら、明日へ向かって進みたいと思う。
「神に出会った女性 ハガル」 森 史子牧師
聖書 創世記 16:1~11
ガラテヤの信徒への手紙 4:22~26
2020年2月23日 受難節前第一主日礼拝
「ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。」(16:1)ハガルは女奴隷として売られ、アブラハムとサラと出会いました。
不妊の主人サラに命じられ、サラの代わりにアブラハムの子(イシュマエル)を身ごもり出産する事になったのです。ところが、若いハガルは思い上がり不妊のサラをばかにした事で、妊娠中に追い出されましたが、そこで初めて神に出会ったのです。
神の御使いを通して語られた言葉は、孤独と不安に苦しむハガルに救いとなりました。神の愛と祝福の預言を受けて、自らの罪過ちに気付いたハガルは、サラのもとに戻りました。勇気と力を与えられて神に従ったのです。
その後、イサクが誕生したことでハガルとイシュマエルには、再び試練が訪れましたが、神の助けを受けて自分たちのために備えられた人生をスタートさせたのです。
ハガルの人生は、奴隷という人間としての尊厳も無い辛いものでしたが、神と出会ったことで全てを取り戻せました。
神が、アブラハムにイシュマエルの祝福を約束した時の言葉「あの女の息子も一つの国民とする。彼もあなたの子であるからだ。」(21:13)
この言葉を聞いたアブラハムは、安堵し、感謝に溢れたことでしょう。この全ての出来事は、神のご計画であり神の愛の歴史です。感謝します。
「神の子・主イエスの働き」 明星晃牧師
聖書 申命記
5:15
ヨハネによる福音書 5:1−18
2020年2月16日 受難節前第二主日礼拝
ベトザタ(文語訳・口語訳「ベテスダ」:「神の憐みの家」の意)
と呼ばれ、主の使いが降りてきて水を動かすとき真っ先に入った者
はどんな病気も癒されると信じられた池には、病気の人、目の見え
ない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、多分、支援者と
共に池で起きる奇跡の希望をもって大勢横たわっていました。
その中に人生のほとんど(38年間)が病気であった男性に主イエ
スが「良くなりたいか」と声を掛けましたが、男性は「自分には池
まで運んでくれる“助け人”がいない」と訴えました。主イエスは
男性の体を癒す“助ける人”となり、孤立に悩む深い絶望状態から
も癒されました。彼は人々の中へ回帰し、宮殿にお参りしました。
主イエスは大勢の人々の中から彼を憐み、み業を行う人として選
ぶ“出会いの奇跡”を行われました。安息日であるにも拘わらず。
み業の内容、目的より、ルール破りを赦さず迫害し殺そうと逸る
ユダヤ人たちに対して、主イエスは「わたしの父は今もなお働いて
おられる。だからわたしも働くのだ。」と仰言いました。父なる神
は初めの人を“助ける者”と共に創造され、今日に至るまでその“
命が生きる働き”を続けておられ、み子・主イエスも働くと。
主イエスは「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また
もっと大きな業を行うようになる」(14:12)と仰言り、「わた
しがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい
」(13:34)というみ言葉を新しい掟としてわたしたちに与えられ
ました。
「神の言葉は生きており、力を発揮し・・心の思いや考えること
を見分けることができるからです。」(ヘブル人への手紙4:12)
「サラの信仰」 森 史子牧師
聖書 創世記 18:9~15
ヘブライ人への手紙11:11
2020年2月9日 受難節前第三主日礼拝
サラは信仰の父と呼ばれているアブラハムの妻です。サラの生涯は、アブラハムと切り離して考えることはできません。
神の言葉(命令)に従い、未知の世界へと踏み出した夫、その夫を信じ支え従って行く妻。旅の途中、飢餓が起こり巻き込まれエジプトに避難した時は、アブラハムを守るためサラは、その美しさを利用され危うくファラオの妻にされるところでした。
神の介入で脱出できましたが、その時もサラは、一言の不満もアブラハムに言っていません。
神は、アブラハムをイスラエル民族の始祖として選び、不妊であるサラとの間に子どもが生まれると約束されたのです。
神の選びの民は、神の祝福を受けたアブラハムから、大いに増え広がって行くことが神の御心です。全てが神の選びの中で粛々と進められてきたイスラエルの歴史(キリストに繋がる道)は、イサクの奇跡的な誕生から生まれたのです。
サラは、自分の不妊が原因でアブラハムが神のご計画を達成できないと悩み、女奴隷ハガルに後継者を産ませる計画を立て実行しました。神のご計画は、神の時に起きます。サラが不妊であることも、神のご計画の中にあります。サラは、イサクを身ごもる直前に、神の声を聞きます。そしてサラは「神の前を歩く女」から「信仰の女」に生まれ変わります。大いに励まされます。主に感謝します。
「正義と愛」 坂口順治氏 (大泉ベテル教会客員)
聖書 ヨハネ第一の手紙 3:16〜18
2020年2月2日 顕現後最終主日礼拝
東北大震災の復興の時には、アンパンマンの歌は、みんなの心をなぐさめ、生きる勇気を与えてくれたことか。アンパンマンの作者、やなせたかしさんは何で自分を犠牲にして他人を救う話を創作されたのかを少々調べてみた。キリスト者であるとの新聞報道もあったが証拠がなかった。類推するに生育過程の精神形成と家庭の雰囲気にあったと思う。(奥さんの親戚に聖書学者の中沢恰樹先生(深津文雄先生の友人)がおられ、シュベスタ―青木しのぶさんが先生の晩年にお世話をされた)
アジアの人々を救うという軍隊の正義は敗戦によって悪魔になった自己体験から、戦後の勧善懲悪のヒーロー漫画に疑問を投げかけた。マント一つ汚さずに善いことをして、壊した街がどうなったかも振り返らないで、飛び去ってしまうヒーローは本当の正義なのか。「逆転しない正義は、献身と愛である。目の前に餓死しそうな人がいると、その人に一片のパンを与えることだ」「正義には勝ち負けはない。困っている人に愛と勇気をふるって手を差し伸べることだけだ」という発想から顔を食べさせるアンパンマンが生まれた。やなせさんには「ほんとうの正義は、愛の実践にあり」という信念が貫かれている。
ヨハネの第一の手紙は、紀元後約130年ほどして、今のトルコの西部のエフェソスの小さな村で書かれた。パウロ書簡のように特定の教会に出した手紙ではなく、信徒に呼び掛けた短い通信である。当時のドミティウス皇帝の圧政によって少数の基督者は生命の危機に瀕していた。苦難を強いられた人々に、お互いに愛し合おう、神への信頼をもって悪の世に打ち勝つ信仰をもって実践をしようと呼びかけている。
「将来と希望」 森 史子牧師
聖書 エレミヤ書 29:4~14
ペトロの手紙一 1:8~9
2020年1月26日 顕現後第三主日礼拝
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」11節
神が、預言者エレミヤを通して語られた言葉である。神の民イスラエルは、神を裏切り罪を犯し続けてきた。神は、バビロン帝国によりエルサレムが崩壊し、民がバビロンの捕囚となる大きな試練を許すと共に、彼らのために計画を立てられた。その計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない」と言われ、「将来と希望を与える計画」なのだと告げられた。
神はイスラエルに対し、創造の初めから深い憐れみと尽きることのない愛を注いでこられた。そして(神の愛の計画)平和の計画は、その後、神の民イスラエルにとどまらず神の家族となったキリスト者にも約束されている。
神は、罪を重ねていく人類を滅ぼすことをせず、救いの計画をくださった。2000年前に、神の子イエス・キリストを人間の罪の贖い(代価)として地上に送ってくださった、そして主イエスご自身が十字架にかかって私たち一人一人の罪だけでなく、人類の犯している罪の清算もしてくださった。
この事実は、私たちの祝福となったのです。どんな試練に遭っても、災の中にいても、神は私たちに「将来と希望」を与える神です。
社会や世界の状況を見て、落胆している場合ではありません。主イエスの十字架の前に謙り、神のご計画を信じ、心を合わせて祈りましょう。
「主にあって生きる」 山本洋子 (大泉ベテル教会員)
聖書 エゼキエル書 18:30〜32
ルカ による福音書 10:25〜37
2020年1月19日 顕現後第二主日礼拝
「何をしたら、永遠の命を得られるのですか?」との質問に、聖書には、「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」、また「隣人(りんじん)を自分のように愛しなさい」という記載がある。具体的にはどういうことなのか、善きサマリヤ人のたとえ話が語られる。追いはぎに襲われ半殺し状態の人をどうしたか、3人の例である。見て見ぬふりをして通り過ぎた2人の祭司を私たちは裁けるかと問われる。
また、この善きサマリヤ人こそイエスキリストご自身、イエスさまは、自分を迫害している人も、自分を敵視している人をも同じように、すべての人を愛し、救いの手を差し出して下さっていることが伝わる。
人を愛するということの究極の愛は、その人の為に死ねるかということと言われるが
それは大変難しい。でも、私たちは神様から平等に時間を頂いている。人の為に、困っている人に、時間を少しでもつかえる人になりたい。自分ファーストなどといわず、人の為に時間を使う人が増えたら、世の中随分変わると思われる。
私たちは友の為に命を捧げた中村哲さんを忘れることはできない。困窮する人の命を救うために必要なのは水、と自ら井戸を掘り、聖句そのものに、荒れ地を緑の地に変え現地の人の生活を守った。イザヤ書35章5-10が重なる。
主にあって生きるとは自分に頂いている賜物を精一杯用いて生きること、苦しいこと、厳しいこと、辛いことを乗り越えようとするとき、自分の思わぬ力が引き出されることを感じる。私たちはまだまだ用いていない賜物がたくさんあるのではないか。神様から頂いている賜物を、お互いに精一杯引き出し合って、私たちが住むところを、社会をよくしていきたい、教会も今の時をみなで力を合わせて繋いでいきたいと思う。
「新しい生活」 関本 賢 (大泉ベテル教会会員)
聖書 詩篇 89篇1〜9
ローマの信徒への手紙12章1〜8
2020年1月12日 顕現後第一主日礼拝
12章の前半は、礼拝について書かれています。1節には、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
深津先生は、生涯を婦人保護事業に捧げられました。まさに聖なるいけにえとして生涯をささげた私たちの信仰の大先輩です。また、その信仰にみちびかれ、生涯を捧げてきたシュベスターの皆さんも、ロマ書2章1節以下を体現していると思います。
3節以下には礼拝、教会生活のひとり一人の役割について書かれています。
「わたしたちのひとつのからだは多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれてひとつの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」うれしいですね。わたしたちは同じ信仰にむすばれた教会という体のパーツなのです。
さらに6節以下では、「わたしは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、奉仕の賜物を受けていれば奉仕に専念しなさい。また教える人は教えに、勤める人は勤めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
わたしたちはそれぞれ異なった賜物が与えられているのです。奉仕、教え、施し、指導、慈善。皆さんはどの賜物を与えられていますか?
みなさん、目を瞑って教会の仲間ひとり一人の顔を思い浮かべてください。誰ひとりとして何もできない人、賜物が与えられていない人はいないんじゃないですか?そして、それぞれに与えられた賜物によって、この教会はひとつのからだとなっています。ですから、神様から与えられた賜物がなにもない人は一人もいません。
新年を迎え、去年も、それ以前も神様に与えられた賜物を大切に用いて今日まで生きてきました。今年も同じように神様から与えられた賜物を大切に、新しい生活を日々送りたいと願います。
「世の光」 坂口節子(大泉ベテル教会会員)
聖書 詩篇4:7〜9
ヨハネによる福音書8:12
2020年1月5日 降誕後第二主日礼拝
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇のなかを歩かず、命の光を持つ」
新しい年が始まりました。
2日後は顕現祭です。「幼子をイ
エスと名づけなさい」と天使は、闇夜のなかに輝く光となって大いなる使命を予見したのです。光は絶望と不安の中にある人々に、希望、憧れ、潔さ、尊さをもたらします。
昨年9月の台風でかにた婦人の村の住人たちはまことに恐ろしい被害を受けました。深夜に暴風雨と停電に見舞われ、真っ暗闇のなかに、お互いに耳慣れた仲間の声をききわけながら無事を確かめあって、気持を静めたとのことでした。その後の長い電気のない生活の明け暮れをどのように耐えたのか、その困難さとまた辛抱強く、解決の予見のない時間を待ち続けたことにリスペクトの気持を伝えたいと思います。
漆黒の闇を体験したことがあります。昔、教会学校の子供たちとでかけた、中之条の美ら寿のキャンプ地です。星もない曇り空の夜は東西南北も左右も区別不可能な闇です。子供たちとオバケ大会と称して歩きだしたときの不安な思いを忘れられません。
「世の光となれ、地の塩となれ」と聖書にあります。「光」が希望なのはわかります。でも「闇」もまた私たちをためし、力をもつのだと考えました。「闇」があるからこそ、私たちは「光」のありがたさを感謝し、鍛えられていくのです。
「明けない夜はない」という名言どおり、「今のこの闇を共に寄り添って、見守っていてくださる方」の存在を信じて、あらゆるアンテナを張りめぐらします。へりくだって主を身近に感じる時こそ、抜け出して「光」に出会います。
恐れるな闇、やがて主は必ず私たちを光へと導いてくださいます。
無牧となって歩みだした大泉ベテル教会にも、世の光として、みんなの力で地域に灯をともす、力がわき出てくることを願っています。